【風雲児新田義貞15】

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灯明寺畷
金ヶ崎城:
琵琶湖を北上し塩津へ上陸した新田軍は、執ように迫る足利軍の追手を振り切りながら敦賀の金ヶ崎城に入城しました。足利方に味方する近江の諸将の追手、峠ごえの吹雪と苦闘の敗走に、多くの勇将を失い、疲弊し、その姿は、天下をうかがえる位置にいた者とはおもえないほど哀れなものでした。
中央の政争から完全に失脚した感のある新田義貞に対して、足利尊氏はそれでも追手の力を弱めようとはしませんでした。新田義貞の首を取るまでは、真の将軍にはなれないと強く信じたのです。それほどに新田義貞の底力を恐れていたのでした。敗残の将をあなどり、それが致命傷となった敵軍を、その目で見ているのですから無理もありません。
新田義貞軍絶滅作戦決行。足利尊氏は、2万騎にも及ぶ大軍を編成し金ヶ崎城へと向かわせました。足利軍を先導するのは、高師泰、今川頼貞、小笠原貞宗、塩冶高貞、仁木頼章ら、そうそうたるメンバーでした。
あまりもの大軍来襲の報に、地元の豪族達はおどろきました。事は新田義貞の首の問題ではありません。身の危険が大です。しかも金ヶ崎城に篭るは勇将新田義貞と、城よりとどけられた綸旨より、後醍醐天皇より譲位された新皇とのこと。
ついに金ヶ崎城の北方、杣山城の城主、瓜生保が、新田義貞の呼掛けに応じ立ち上がりました。しかし、善戦むなしく足利の大軍相手に、数の上の差で破れ、ついに金ヶ崎城は足利軍により包囲されてしまったのです。
これまでか。最期の時が来たことを悟り、観念した新田義貞に、生きて宿敵足利尊氏を必ずや倒して欲しいと懇願する家臣たちの悲痛な叫びがむなしく響きます。
1337年3月5日。夜隠に乗じて城を脱出した新田義貞、脇屋義助兄弟には、供もなく、一路、杣山城を目指したのでした。こころざしを供にし、新田庄を立った時から、常に彼と供にあった者達を見殺しにしての敗走は新田義貞にとって、自害よりも辛い選択でした。
翌日、無事に杣山城に到着した新田義貞に金ヶ崎城陥落の知らせが届きました。嫡子新田義顕自害(20歳)、城主気比氏治自害、尊良親王自害(25歳)、里見時義自害、恒良新皇捕縛という惨嘆たる結末に新田義貞は悲嘆にくれたのでした。
杣山(そまやま)城:
思えば、新田庄より鎌倉へ向かった時の新田一族の同志は、ことごとく果て、もはや義貞義助兄弟のみとなっていました。新田義貞は挙兵当初の初心を思いだしていました。わずかな手勢で、あの強大な幕府を倒そうと決意したときの情熱を。最初からやり直してみよう。新田義貞は杣山城に隠れるように潜み、各地の同志を募ることに専念しました。
杣山城の瓜生の軍勢だけでは、城の防衛がせいぜいで、とても攻撃戦の出来る数ではなかったのです。足利軍は金ヶ崎城の完全陥落で新田義貞も果てたとして引き上げていましたので、足利方に気付かれぬよう慎重に事を運ぶことが可能でした。10騎20騎と同志を募り、ようやく地元守護の斯波高経と対戦できるほどの力を復活できたのはその年も暮れようとする初冬のころでした。
1338年の春。越前の草原に、あの新田義貞の雄姿が再びよみがえりました。破竹の進撃は、あの関東平原で諸国の豪族を魅了した源氏の頭領の姿でした。国府城を占拠し、足羽、藤島の平原を掌握し越前地方の中心地の大半をわずかな期間で平定したのでした。時に中央では、北畠顕信率いる奥羽軍が再び京へ向かって進軍しており、男山八幡にて京をうかがう構えをしておりました。
新田義貞の手元に久しぶりの吉野に篭る後醍醐よりの書状が届きました。奥羽軍に対し援軍の催促状でした。
やむなく、脇屋義助に軍勢の半数を持たせ京都へむけ進発させた新田義貞の心中は複雑でした。奥羽軍への援軍が、どれほどの意味をもっているというのでしょう。たとえ宿敵足利尊氏を打ち取ったにしても、それは、後醍醐による第三次公家政権のスタートでしかないのです。天下の大将軍を目指す新田義貞の理想とは無縁の事だったのです。
脇屋義助軍が敦賀にさしかかったころ、男山八幡の奥羽軍残敗の知らせが入り、脇屋軍は、空しく引き返しました。
灯明寺畷(とうみょうじなわて):
さて、灯明寺(現福井市郊外)に陣を引く新田義貞は北方の小黒丸城を攻撃中でした。小黒丸城には国府城より逃走した足利方の地元守護、斯波高経が潜伏しており、復活したばかりの新生新田軍が、越前を平定するには絶対に倒さなければならない相手でしたので、全軍を挙げて攻撃しておりました。
小黒丸城外周には、いくつかの城砦があり、まずはそのひとつの藤島砦を攻撃しておりましたが、戦局がなかなか開けず、新田義貞自ら出陣し指揮をとるべく手勢で藤島砦へと向かいました。
そこへ折り悪く、小黒丸城より藤島砦へ向かう細川出羽守孝基率いる300騎の軍勢とまともに鉢合せしてしまったからたまりませんでした。小雨ふる灯明寺畷のぬかるみに足を取られながらも、必死に大将を逃がそうと戦う家臣たちの頭上を矢が飛び新田義貞の乗る馬に当りました。泥田に頭から落ちた義貞が起き上がろうとしたその時、無残にも一本の矢がその眉間を貫き義貞は、静かにその場に崩れるように倒れました。
1338年閏7月2日。享年37歳。
上野国新田荘は生品神社の杜に挙兵してより5年。幾多の絶対絶命のピンチを乗り越えてカリスマ的人気で各地の豪族から慕われた風雲児の、それは、あまりにもあっけない最期でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏