【南風 6】男山合戦
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男山八幡

男山八幡。つまり石清水八幡宮のことです。清和源氏の名を一躍有名なものにした源義家は、別名八幡太郎と呼ばれ、石清水八幡宮に祭られています。源氏のまつえいの足利家、および多くの関東武士としては、最高峰に位置する神宮であり、決して弓を向けることのできない聖地でありました。従って清和源氏の家系を名乗る相手との戦さでは、常に駆け引きの道具に利用されてきました。しかも、ここ男山は、京の都の、のどもとにあたる位置にあり、南北朝を通していつも激戦がおこなわれました。
足利尊氏の留守を狙った南朝の大攻勢に、一時近江へ逃れた足利義詮でしたが、ようやく反撃の体制が整い、退いた南朝の主軍の陣取る男山に向い進軍を開始しました。

南朝苦戦

1352年3月21日。南下してきた足利軍は、南朝第一の防衛線の赤井河原をまもる北畠顕能に突進してきました。勢いのある足利軍に一瞬ひるんだ南朝軍はこの戦の勢いを決する大切な防衛線を難なく突破されてしまうのでした。
やむなく撤退した南朝軍は第二防衛線の淀・大渡を守りますが、24日になって足利軍が宇治、木津川の陣地を落とすに至り、危険を感じ、退いて荒坂山にこもりました。ここでの激戦は相当なもので、山上から投石などで陣を守ろうとする楠木正儀らの活躍で、どうにか南朝軍優勢に、その日の戦いは終了しました。しかし、守るに不利とみた楠木正儀は、その夜のうちに男山へ撤退してしまうのでした。
4月25日より開始された第二次戦では山下にいた後村上天皇が山上に避難するという切迫した事態となりました。
あけて5月、楠木正儀と和田五郎が援軍を組織する目的で河内へ帰りました。しかし、心労の重なった和田五郎は、あえなく病死。たのみの楠木正儀はといえば、そのまま河内に留まりいっこうに援軍を動かす気配がありません。いったい楠木正儀の胸中に、どんな変化があったのでしょうか。

男山陥落

各地から南朝の後村上天皇の綸旨をうけた南朝派の武士が男山をめざしましたが、彼ら援軍が到着するのを待ちきれず、ついに5月11日夜、後村上天皇は闇に乗じて敵包囲網を突破し、奈良の唐招提寺に逃れました。逃げる途中敵の射かけ矢が当たったにも係わらず怪我ひとつなく、強運の天子ではありました。
その日の夜のうちに賀名生に到着した後村上天皇の、それは無残な完敗でした。

北朝再興

さて、その後1354年3月22日。後村上天皇は在所を河内の金剛寺に移しました。そこには、南朝に幽閉された北朝の上皇たちも一緒でした。それは、足利幕府を無視した形で政務をとりおこなう為のデモンストレーションでもありました。
それに対抗し足利義詮は日野資名の養子となっていた光厳上皇の三男を急ぎ天皇にかつぎあげ、北朝の天皇空位という異常事態に対応しました。異例の、太上天皇の詔命なし、偽神器すらない後光厳天皇即位でした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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