【鎌倉滅亡悲話(13)五代院宗繁の場合】
前 戻る
得宗北条高時の嫡子万寿丸はわずか前に元服したばかりで、相模太郎邦時を名乗っていたが、相変わらず側近たちからは幼名で親しく呼ばれていた。この万寿丸を何としても逃せと北条高時から命じられた男が、五代院宗繁(ごだいのむねしげ)であった。五代院宗繁が、この困難な役を仰せつかったのには特別な理由があった。この万寿丸の母親は五代院宗繁の実の妹であり、万寿丸にとっては叔父にあたる人物であった。万寿丸を命がけで守る役目には、最適な人物だったのである。
「宗繁、何としても、邦時を守りいずれの時にか北条の旗をたてて、この恨みを晴らしてくれよ。」
北条高時の絞るような声に、五代院宗繁は、かしこまりながら返答した。
「かしこまってございます。何としても邦時様が再び御旗を立てられる時までお守り申し上げます。」
こうして万寿丸は、叔父の五代院宗繁に守られ鎌倉の町外れの粗末な町民の小屋に隠れた。悟られぬように五代院宗繁は、家臣を一人も伴わず、ただ事情を知らぬ中間を二、三名連れていた。北条の鎌倉が滅びる様を万寿丸は、明かりとりのわずかな隙間から眺めていた。新田軍による北条残党狩りは厳しかった。あらゆる北条氏と血縁のある者が連日刑場に引き出され、ことごとく処刑されていた。そんなある日、五代院宗繁が、小屋に入るなり困った顔をして万寿丸に話しかけてきた。
「若殿様、ここはもはやあぶないようでございます。我が手の者が調べた所、すでにここに北条残党が隠れているという話が敵に漏れて明日にでも捕まえにくるとの事でございます。もはや、ここも見張られているはずなれば逃げ出す手だてもありませぬ。何とかここで私と手の者が敵の注意を引きつけておきますので、闇にまみれて逃げ出してくだされ。この様な事情なれば、供も付けられませぬ。中間をひとり道案内に、付けますので、どうぞその者と一緒に今夜中に鎌倉を抜け出されますよう。」
事は切迫していた。敵はいつ小屋に襲撃しかけてくるともわからぬ。万寿丸はやむなく五代院宗繁の言葉に従い貧しい町民の姿に替え、破れかかった草鞋に、だいぶくたびれた風の編笠を身につけその夜のうちに中間とふたり、旅だった。行き先は、伊豆の伊豆山権現であった。伊豆山権現は代々北条家が手厚く保護してきた関係で北条氏に心を寄せており安心して隠れる事の出来る場所であった。残された五代院宗繁は、新田の残党狩りを防ぐ手だてをする様子もなく、悠然と敵の参謀、船田義昌の元に出頭して行った。
「入道殿に申し上げます。私は北条の家臣、五代院宗繁にございます。主君に恩義して源氏の御大将に刃向かう意志など微塵もございません。本日は、新しい鎌倉の主に忠義のしるしにと、北条氏の嫡男、北条邦時が逃げ行く先をつげに出頭したものでございます。もし、みごと入道殿に手柄を立てさせる事が出来たあかつきには、五代院の領地の安堵を取りなしてはもらえまいか。」
五代院宗繁は、幼き主君を裏切ったのであった。残党狩りの手が近づきつつあるのを見て、もし北条の血を引く者をかくまっていたのがわかればただではすまないだろうと判断し、わざわざ自分の手配した隠れ家を追い立てての計画的な裏切りであった。船田義昌は、こういったたぐいの者が一番嫌いであった。第一、自分が腹黒い功名心を持った五代院と同類の人間と見られたのが、なんとも腹立たしかった。しかし北条の嫡男となれば、なんとしても捕らえねばならぬ。
「よろしい、見事手柄を立てた時には、思いは叶うであろう。」
船田義昌の言葉にこ踊りして喜んだ五代院宗繁は、さっそく兵を伊豆にむけよと進言した。船田の手勢が伊豆山に通ずる相模川にたどりついたのは翌朝であった。
「あれでござる。あれが相模太郎邦時でござる。はよ捕らえよ。」
五代院宗繁は、昨日までの主君を呼び捨てにして叫んだ。たちまち幼い万寿丸は、船田の手勢に捕らえられ、鎌倉に護送された。
「哀れな事だ。いかに宿命とは申せ、あのような幼子を得宗殿の嫡男であるが故に首はねねばならぬとは。」
船田義昌は捕らえた万寿丸が、ことのほか幼い顔立ちをしているのを見て、ため息をついた。まつりごとをただすためと言いながら、なぜか後ろめたい物を感じていた。万寿丸はその翌日に刑場で処刑された。新田の軍勢の中からも、万寿丸を哀れむ者が多かった。多くなればなるほど、その矛先は、私欲の為に幼い主君を欺いた五代院宗繁への憎しみとなっていった。新田義貞は、船田義昌から事の子細を聞くと言った。
「北条の若き君主邦時殿には、何の罪もなかった。罪がなくとも処刑せねばならない。さすれば、罪の無い北条邦時殿を処刑し、その家臣の五代院宗繁を罪が無かったという理由だけで放免したのでは、筋が通らぬ。五代院宗繁も、同じ刑を与えよ。」
新田義貞の命令でさっそく兵が五代院宗繁の屋敷に走った。五代院宗繁は敏感に察知すると、捕らえられる寸前に屋敷を逃れた。
その後、新田にも北条縁故の者にも見放された五代院宗繁は変装の姿そのままに、飢えて死んだ物乞いの遺骸の中に見つけられたと伝えられる。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
前 戻る
 
足利尊氏のホームページへ