【鎌倉滅亡悲話(3)狩野五郎重光の場合】
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北条義政の家系で塩田国時、俊時父子が、鎌倉を死守せんと戦っていた。
「父上、もはや鎌倉を守るのもこれまでかと思われます。あとは敵の手にかかって後の世に恥を残すより、いさぎよく腹を切りましょうぞ。」
塩田俊時は武士のたしなみを身につけた若者であった。父の言葉を待つより早く刀を腹にあてて、その場に果てた。
「おお、なんと無惨な。」
息子の割腹を目の前にした塩田国時は絶句した。悲しみに涙を流しながらも、家臣の者を集めて最後の命を与えた。
「よいか、これよりわれは経を唱える。これを読み終わるまでは敵を一歩もこの屋敷に近づけるでないぞ。」
家臣達は、その命に従うべく屋敷の回りに散った。塩田国時の側には、果てた息子の、俊時と、執事の狩野五郎重光が残った。
「重光よ。この経を読み終わったのちに、われは腹をきり俊時の元にいこうと思う。そなたは屋敷に火を放ち、わが首を決して敵の手にわたすな。」
塩田国時の言葉に狩野重光はひれ伏した。やがて静かに塩田国時の読経が始まった。外では家臣達が敵の矢をくい止めようと必死で戦っていた。しばらくして、外の様子を見てきた狩野重光が、塩田国時の読経をさえぎった。
「殿、無念ですが、すでに外で敵の矢を防いでいた兵達はすべて討ち死にしました。やがてここにも敵がなだれ込んで来ましょう。もはやこれまでと思われます。」
それを聞いた塩田国時は、無念であるとつぶやき詠んでいた教典を左手に握ったまま、もう一方の手で割腹して果てた。不気味にほくそえむ狩野重光が、それをのぞき込んでいた。狩野重光は主家を裏切ったのであった。敵は近づきつつあったが、いまだ家臣の果敢な防戦で持ちこたえていた。狩野重光は、中間の者に屋敷の財宝を持たすと、隠し戸より屋敷を抜け出し、近くの円覚寺に隠れた。
「まあ、主家は滅びたとはいえ、これだけの財宝があれば生涯暮らすに不自由はすまい。敵に敗れる度に自害していたのでは、これからの乱世、全ての武士が滅びてしまうだろうよ。愚かな事だ。」

やがて鎌倉の新しい主となった新田軍は、滅びた者へも寛大で、新田陣屋に降参を届け出、鎌倉復興に協力する者には特にとがめをしなかったが、ただ、自分の延命の為だけに主家を背いた者には厳しかった。やがてなにくわぬ顔で新田の陣に現れた狩野重光を新田義貞の執事船田義昌(ふなだよしまさ)が見とがめた。
「そなたは、たしか塩田国時殿の執事のはずであるが、主家はいかがいたした。」
船田義昌は新田義貞にかわり鎌倉の雑事に就いていた関係で事情に詳しかった。
「は、無念にも主の塩田国時ならびに嫡男俊時は討ち果ててございます。わたくしめは、塩田一族みな滅び去った今、その菩提を弔いたく、おめおめと生きながらえております。なにとぞ吾が願いをお聞き願いとうございます。」
狩野重光は、その場かぎりの偽りを言った。
「そなた、この場においてもそのような偽りを申すか。先日捕らえた塩田の家臣が口をそろえて、そなたが中間と財宝を抱えて主の死骸をまたいで逃げる様を見たと申しておるに。素直にわびれば武士らしく死出の花道も用意してやろうと思ったに。どこまで浅ましい男だ。」
やがて首をはねられた狩野五郎重光のその首は、由比が浜の刑場にさらされ、昨日の敵味方を問わず鎌倉中の者の憎しみの対象となったという。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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