【鎌倉滅亡悲話(2)安東左衛門聖秀の場合】
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鎌倉の老臣に、安東左衛門聖秀(あんどうざえもんしょうしゅう)と名乗る者がいた。さほど身分は高く無かったが代々執権の近くに仕えてきたことが誇りの家柄であった。
安東左衛門は、鎌倉市中になだれ込んだ新田軍と果敢に戦いながらも、劣勢に押され続け、もはやこれまでと、屋敷に帰ってきた。
みれば屋敷の中はすでに家の者達はどこぞやに逃れたようで誰もいなかった。
「無事に逃れてくれればよいが。」
安東左衛門が、つぶやいていると、屋敷の前を通りかかった武士が声をかけてきた。
「そこにおわすは安東左衛門殿ではござらぬか。お屋敷の方々は無事逃れられたか。」
その者は日頃北条高時の身辺を警護する者だった。
「おお、おぬしか。大殿はいかがなされた。」
正気を取り戻した安東左衛門が、たずねると、その者の言うには、すでに北条屋敷も焼け落ちて、北条高時以下全ての重臣達は東勝寺へ移ったとの事だった。
「なんと、いたわしや。それで焼けたお屋敷の後には、どれほどの兵が果てておったかな。さぞかし忠義の兵の無惨な最後で満ち溢れていたであろう。」
するとその者は、無念そうに小声で安東左衛門に言った。
「いや、日頃忠義忠義と申しながら、いざとなれば恥ずかしいかぎりよ。大殿もこれまでとお屋敷に火が付くと兵どもは一目散に東へ西へと逃げ出す始末。誰一人その場で果てた者はなかった。」
これを聞いた安東左衛門はくやしがった。
「なんともなさけないことだ。国の主、鎌倉殿に仕える兵が、敵にお屋敷を土足で踏まれながら誰一人それを拒もうともしなかったとは。これは後々までの恥。よし、わしが焼け跡にたちて自害して鎌倉武士の汚名を消そうぞ。」
言うやいなや、この熱血老臣は焼け落ちた北条屋敷の跡に急いだ。
北条の屋敷は跡形もなく焼け落ちて無惨な姿であった。ここであの優美な舞遊びがほんの数日前まで開かれていたなどとは信じられない光景であった。
呆然とたたずむ安東左衛門の所に新田の武士と思われる者が近づいてきた。
「そこにおわすは安東左衛門聖秀殿とおみうけもうすが、いかが。」
武士は、意外にも安東左衛門の名を呼んだ。
「いかにも我こそは安東左衛門聖秀なるが、新田の者がわしに何の用だ。」
安東左衛門は刀を取るでもなくその武士に返答した。
「やはり安東殿か、一度見ただけなもので記憶が定かではなかったが、無事に巡り会えた。まずは上首尾。実はそれがし、新田の者で北ノ台様の近くに仕える者でござる。北ノ台様の命により、この文を届けに参った次第にござる。」
そう言うと新田の武士は、薄様の女がしたためたと一見してわかる文をさしだした。
『伯父様は、わたくしを幼き時より育てて下さったお方。父の如くしたっております。もはやいくさも終わったも同然と聞きますれば、伯父様の身を案じております。どうぞ、この文を持参した者とともにおいでくださいませ。わたくしが一身にかえてお守りいたします。』
北ノ台は、先年安東家より新田の嫡主新田義貞に嫁いだ姪であった。つまりは安東家は新田家の正妻の実家であり深くつながった縁戚であった。北ノ台は、実家の伯父を慕っており、その身を案じて新田軍について鎌倉に来ていたのだった。
文を読む安東左衛門の手元がふるえた。
「なんとも浅はかな嫁だ。このような家を辱める文を書くような娘に安東家は育てた覚えはない。きっと愚かな主のもとで、同化してしまったのであろう。新田のご家来よ。返す文に変えて、このさまをこの文の主に伝えよ。」
そういうやいなや、焼け跡の中に座りこみ、文を懐紙がわりに刀の先をつかむと、えいとばかりに腹を切ってその場に果てた。
新田義貞はこの後、二度と新田荘の北ノ台の元には帰らず、やがてそのあるじさえ勾当内侍に奪われた北ノ台は歴史の渦に寂しく埋もれていくのであった。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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