虚構の義賊国定忠治伝(12)

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長岡忠次郎が、はりつけの刑にあってから18年後に徳川政権は崩壊し、明治維新となりました。忠次郎が刑死した当時の反応は、極悪人の最後を語る江戸の河原版の話が記録に残る程度で詳しくは不明ですが、たぶん現在に伝わる義賊伝説は無かったろうと思われます。
長岡忠次郎が、国定忠治として脚光を浴びたのは、あの有名な、「講釈師見てきたような嘘をつき」の川柳で有名な宝井馬琴の孫弟子で、明治の講談師宝井琴凌という人物が『馬方忠治』という講談をヒットさせたのが始まりでした。ちなみに私も「講釈師」を自称してはおりますが、「嘘っぽいけど根拠のある話」に徹しようと心掛けていますので、口から出任せはやりません。もっとも結果的に間違っている場合というのはありますが。忠治物は、講談で次々と当たり「岩鼻代官殺し」「赤城の子守歌」などよく知られる話が創作されました。もちろん、それは大半が長岡忠次郎の実像を完全に離れた虚像でしかありませんでしたが、庶民はスーパーヒーロー国定忠治に酔いしれました。やがて講談を離れた国定忠治の虚像は小説となりベストセラーとなり、歌舞伎になり五代目尾上菊五郎により大ヒットしました。大正に入り大衆文学のヒーローとなり、地方回りの劇団の出し物になり、新国劇に登場し、松竹キネマの初トーキー「浅太郎赤城の唄」になり主題歌を歌った東海林太郎のデビュー曲となりレコーディングされた八木節の歌詞になり・・・最近では少々人気も失せましたが、未だに赤城山と言えば国定忠治と言われる人気は衰えていないようです。群馬県の誇る詩人萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて行き読んだ詩があります。
さて、長岡忠次郎を多少の美化を交えて遠慮気味に表現した最初の人物は、以前ご紹介した羽倉簡堂という人物でした。彼は何と関東取締出役の大元締め関東代官から勘定吟味役まで勤めた忠次郎に取っては正反対の立場の人物でした。なぜその彼が、極悪人の忠次郎を美化するような『赤城録』『赤城逸事』などという物を書いたのでしょう。天保の飢饉のおり、縄張りの村人を救った忠治の話を聞き、代官職にありながら、多くの領民を死なせた経験を持つ羽倉簡堂が赤面してその伝記を書こうと思い立ったという話がありますが、本編の執筆中に群馬県在住の歴史好きな仲間が『簡堂は老中水野忠邦にめをかけられ大役に就いた。しかし水野が失政を問われて失脚すると、連鎖して職を辞したとある。その辺の個人的うらみを幕府に持っていた。』という個人的な私恨で、幕府の失政と義賊国定忠治を並べた物を書いたのではという興味深い説を寄せてくださいました。言われてみればたしかに、羽倉簡堂が『赤城録』を執筆し始めたのは失職後の事ですので、なかなか鋭い考察ではないかと思います。氏からは、この際貴重な資料を送っていただき、参考資料とさせていただきました。
ほかに江戸時代、忠次郎を書いた人物には深町北荘という人物が『博徒忠治伝記』『忠治引』という物を残しています。
 今回のシリーズでは資料として出版図書に頼る部分が多かったので敬意を表して講釈師としては例外的に出典をご紹介いたします。そのほか多数の雑資料にも頼りましたが、細かくは書きません。
国定忠治の旅    新月通正 朝日ソノラマ
国定忠治おんな列伝 渡辺明  吾妻書館
国定忠治の時代   高橋敏  平凡社
 

《完》

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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