虚構の義賊国定忠治伝(11)

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 八寸の勘助殺害には、さすがに関東取締出役も本気で大捜査網をしき、国定一家の壊滅作戦を展開しました。国定忠治が愛刀小松五郎義兼に語りかける名場面は、この時の話で、この時実質的に国定一家は解散となり子分達はちりぢりになって赤城山から去っていきました。大々的な捜査網の前に、国定一家の中心人物が次々と捕縛されました。最古参の子分の日光の円蔵もこの時期に捕まり拷問の果てに獄死しています。悪運の尽きない忠次郎はこの時もかろうじて逃げ切りました。
 放浪の果てに、ふたたび上州に戻ってきたのは1846年(弘化3年)の事でしたから忠次郎は、またもや4年間の長い期間逃走生活を続けていた事になります。上州に戻った忠次郎には、もはや過去の栄光の面影はまったくありませんでした。縄張りも境川の安五郎の物となりました。一家を形成するほどの実力を失った忠次郎は、その後数年間をおとなしく過ごしたのちに、1850年(嘉永3年)痛風にかかり、愛人宅で養生をしている最中に逮捕されました。
 国定忠治こと長岡忠次郎は、伊勢崎で簡単な取調を受けた後に江戸に送られ正式に勘定奉行所で「はりつけ」の刑を言い渡されました。忠次郎は、いくつかの凶悪犯罪の罪状で訴えられていましたが、そのうち最も重い関所破りの罪状で有罪になったのでした。当時は情状の余地のある殺人事件より、問答無用の大犯罪の関所破りのほうが結果的に罪が重かったのです。関所破りの場合、その管轄地で刑を執行される事になっておりましたので、忠次郎は上州と信州の境の大戸の関に護送されました。大の字にはりつけされ左右から交互に何度も突き刺すという残酷刑で忠次郎が処刑されたのは1850年(嘉永3年)12月21日、忠次郎41歳の事でした。
 忠次郎の刑に連座して、何人もの人物が各種の刑にあったと記録には残っています。そのうち最も重い罪に問われたのが田部井村の名主でした。名主でありながら忠次郎と組んで悪行を行ったとして打ち首の刑になっています。
 当時の刑罰で、最も重いのが「はりつけ」でした。このような極刑を受けるのは非常に悪質な犯罪を犯した者に限られていました。権力機構に挑戦した者などが、この刑をうけましたので、後の義賊伝説は案外、忠次郎が「はりつけ」の刑に処せられた事が最大の理由になっているような気がします。「はりつけ」に続く重い刑が「死罪」でした。死刑には違いありませんので、実際に軽重はありませんが、こちらは首を切り落とす死刑でした。悲惨なのは残された家族の財産も全て没収となる事で、それがない「斬罪」とは区別されていました。「遠島」は流罪の事で、罪の重さからいえば死刑とたいして変わりませんでした。「重追放」は、御構場所(おかまいばしょ)と呼ばれる地域への出入りを禁止される罪で、ほぼ当時の都市部の大半が御構場所に指定されていました。実際には旅姿であれば許されるという便法もありましたが、特別にそれも禁ずる付帯事項付きの追放という場合もありました。「中追放」「軽追放」という範囲を比較的ゆるめた追放もありました。「過料」と呼ばれるのは、その名の通り罰金刑です。現代でも過料という物がありますが、こちらはスピート違反などの軽い禁止事項に違反した人に科せられる物で刑罰のように前科者になる訳ではありませんが、当時の過料は、現代の罰金にあたる刑事罰で、当然前科者になってしまう重い罪です。「押し込め」とは武士の場合の蟄居にあたる物で、自宅に謹慎し外に出るのを禁じる罰です。通常は短い期間に限定された刑罰ですが、中には重罰の終身押し込めや、反対に形式的に謹慎していれば良いだけの期限も定めない軽い押し込めもあります。そのほか現代にないユニークな刑罰として、直接犯罪に加担しなかったけれど、近所に住んでいながら注意を怠ったなどといった道徳的罪で、特に償いは求められない、「急度(きっと)叱り」や、そのまた軽い物で「叱り」といった刑もありました。もちろん軽微とはいえ有罪刑ですから、「叱り」を受けた者は、いわば前科者です。したがって、現在の「不起訴処分」に似てはいますが根本的に正反対の物です。「不起訴処分」の場合は、「処分」といいながらも実状は、罪状の問えない場合や、起訴しても有罪にできる可能性の少ない被疑者の取扱いの場合に使う便法で、実質的には裁判により無実が確定し捜査の不備を問われるのを避ける時に用いる物で、被疑者は完全な無実です。これ以外にも「引き回し」「獄門」「たたき」「預け」などといった各種の刑罰があります。「切腹」「閉門」などという刑があるのは武士の場合です。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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