【土偶の詩人 坪井正五郎 4】
戻る
 
《吉見百穴、コロボックル住居説》
 大学院に進んだ翌年の明治20年(1887年)8月、24歳の坪井正五郎は埼玉県横見郡の黒岩村、北吉見村の両村の丘陵にある横穴を調査しました。それまでも24の横穴が確認されていた北吉見村では、今回の調査では実に59の横穴を新たに発見しました。また黒岩村では都合20の横穴が確認されました。その翌月には総計195という膨大な量の横穴が出現するという大発見になったのでした。
 坪井正五郎は、その横穴探求記と称する発表のなかで横穴の状況や出土品について細かく述べ、横穴は元々住居として作られ、現代の日本人の直接の先祖または「土蜘蛛」と呼ばれる先住民が居住していた。そしてその中には後代に葬穴として使用されたものもあったと発表しました。彼は横穴の目的の可能性として住居、倉庫、墳墓をあげ、水捌けに留意した跡があり、これは墳墓には不要なものであるから住居か倉庫となり、また室内に床と思われる部分が有り、これは倉庫ではなく住居である可能性のほうが高いという結論で住居と発表したのでした。
しかし住居とするにはやや小さいために背丈の違う先住民居住説を述べたのでした。有名なコロボックル居住説でした。のちに延々と続く白井光太郎との論戦のひとつとなったもので坪井正五郎の住居説に対して白井光太郎は一貫して墳墓説を主張しました。結果として現代では各地の同類の洞穴遺跡の状況から墳墓の目的で作られたものであろうという事で落ち着いておりますが、当時コロボックル伝説に夢を馳せた坪井正五郎が吉見百穴の緻密な調査を行った事が後に我が国の洞穴研究発展に大きく貢献することになったのでした。
《若き教授》
 その後の数年は坪井正五郎の最も華やかな活躍の年が続きました。コロボックル説の再確認のために北海道に渡り後に重要な役割をすることになる洞穴文字の報告をおこなうなどの業績をつんだのちに、明治21年理科大学助手となり、翌22年、命ぜられてロンドンに留学し人類学を極め、イギリス人類学会会員に推挙される活躍をし、25年帰国と同時に理科大学教授となりました。この年坪井正五郎29歳、熱血の20代の締めくくりでありました。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
戻る
 
足利尊氏のホームページへ