川俣事件を審理する裁判官が、本格的な鉱毒の原因調査と被害調査を行った事で、田中正造が10年間議場で一貫して主張していた事柄が、何の誇張もない事実であった事が初めて証明され、これを知った内村鑑三はじめ多くの識者が足尾鉱毒の本当のひどさを知り救済活動を開始した。
明治34年11月、活動を開始した鉱毒地救済婦人会の会合に、古河市兵衛婦人は、ひそかに家の女中を出席させた。婦人は、ちまたの運動の意味が全く理解できないでいたのだ。帰ってきた女中からの報告を聞き、初めて鉱毒被害の実態を知った婦人はその夜神田橋から身を投げて自害した。
キリスト教徒、社会主義者、仏教徒らが中心の救済活動であったが、現地を訪れた人々は、想像以上の惨状を見て絶句した。鉱毒がいかに人命を奪い村を崩壊させたかを知り初めて中央で活動していた人々は、その無知さ加減を認識したのであった。
12月9日、急進派の幸徳秋水の元に田中正造が訪れていた。田中正造は、鉱毒被害農民に対して約束したひとつの事を実行するために、国会議員を辞して密かに行動していたのであった。
『私の要求が政府に通じぬ時は、みずから先頭に立って死を決する覚悟である』
田中正造は確かに約束した。そして、度重なる追求にも何等回答しようとしない政府を見て、田中正造は、この農民達との約束を実行する決心をしたのであった。
天皇直訴。田中正造の考えた結論はそこにあった。憲法は天皇陛下が臣民の幸福の為に作られた物。その憲法を正しく行わない者がいるために、陛下の臣民が苦しんでいる。それをぜひ陛下にお伝えしなければならぬ。そう田中正造は考えた。
前日、妻カツに離縁状を書き送った田中正造は、この日、名文家で知られた幸徳秋水に、その直訴状の草案を依頼しに来たのだ。幸徳秋水は田中正造の決心を知ると二つ返事でこれを了承し、田中正造の望む通りの古式にのっとった文体で徹夜で直訴状を書き上げた。鉱毒地の復旧を天皇に求める主題を見事な文体で綴ったもので、正造もわずかな加筆をしただけで満足してこれを受け取った。
そして無頼の男には似つかわしくない黒紋服、黒袴を身につけて衆議院議長官舎に潜んだ。やがて午前11時頃、第16回議会の開院式からの帰路にある天皇の馬車が桜田門に近づいた頃、田中正造は白足袋のまま、その列めがけて飛び出して行った。
両手に「謹奏」としたためた直訴状を握り、
「お願いがございます。お願いがございます。」
と、精いっぱいの声を振り絞って天皇の馬車めがけて突進していった。60を越えた老人が正装でよろけながら走る様は、端からみれば滑稽そのものであった。騎馬兵が手に持った槍でこれを遮ろうとして、慌てて馬を反転させ、勢い余って落馬した。これをよけようとした田中正造もつまずいて倒れ、あとは大勢の警官が倒れた田中正造を取り押さえ、天皇の馬車はその横を何事もなかったかのように通り過ぎた。とっさの出来事であり、天皇はその小さな出来事には気づかなかった。
田中正造の時代錯誤な直訴は、またたくまに世間に知れ渡った。政府はこれによる世論の沸騰を危惧し、田中正造の行為をただの発狂として、翌朝何の罪も問わずに釈放した。田中正造の決死の行動にもなお、権力者達は正面から回答する事を避けたのである。
結果的にこの直訴問題は、三つの結果を産みだした。ひとつは世論で、これは政府の根回しの結果、田中正造の思惑を離れ、直訴の可否という問題にすり替えられてしまった。もうひとつは、田中正造に批判的な人々に、田中正造は狂人であるという誤った結論をあたえてしまった事であり、最後のひとつは、鉱毒救済運動が、これにより、益々盛んになった事であった。
その盛り上がりの様子は、時の文部大臣や東京府知事が、学生による救済活動は政府に学生が関与する行為であるから全面的に禁止すると発表したにも係わらず、帝大の山川総長が、これを是認した事でもうかがえる。
しかし、鉱毒被害民に人生をなげうって救いの手をさしのべた運動家は後にも先にも田中正造ただひとりしかいなかった。政府が本気でこの活動を阻止する動きを見せると、学生達はこの本来魅力の無い地味な活動にすぐに嫌気を感じて、ただちに中止してしまった。
その間に田中正造は、例のおおあくび事件の裁判で有罪の判決を受けて41日の禁固という余りにもおかしな重い刑をうけ服役する事になった。田中正造の農民運動の根を絶やせると喜んだ批判者が、一斉に田中正造批判活動を活発に展開した。農民運動を食い物にした詐欺師がようやく捕まったと世論に訴えた。内村鑑三らの、ごくわずかな弁護者を除き世論は田中正造から完全に離れていった。しかし熱血の男は、決して屈服する事は無かった。田中正造が後の世に真に義民と讃えられる足跡を残したのは、実はそれからの事であった。 |
《小休止》 |
●係わった人々● |
さて、田中正造と足尾鉱毒に係わった人の中に、意外な人物が数多くいました。
ある時、田中正造の運動を支えた被害民救済婦人会の街頭演説を聞いていた一人の学生が、衣類の寄付を求めるその演説が終わると、その場で着ていた外套を脱いで置いていきました。婦人会の人々が、感心な学生がいたものだと思っていると、下宿に一端戻って行ったその学生が、身につけている衣類以外の全ての手持ちの衣類を持って戻って来ました。「貧乏学生なもので、これだけしかありません。」と申し訳なさそうに告げると、学生はその場を立ち去って行きました。さすがに婦人会の人々も、この冬に入って、大丈夫だろうかと心配し、名も告げず去って行った学生の名刺をその衣類のポケットから発見すると、さっそく、その下宿の女主人を訪ねて行きました。さすがの慈善家の婦人会でさえ、この学生が頭がおかしいのではないかと心配していたのです。
「多少性急な人間ですが、気は確かな学生です。」
笑顔で話す女主人に、婦人会の人達はほっとして引き替えすと、さっそくこの慈善家の善意を被害民の元に届けたのでした。婦人会が見つけた名刺には「河上肇」とありました。むろん、後に著明な経済学者となった、あの河上肇青年の事です。
あの直訴事件の翌日、釈放された田中正造の元へ、16歳の黒沢酉蔵という少年が訪ねて来ました。少年は号外で知った田中正造に英雄の姿を感じて会いに来たのです。このような少年と対する場合でも、田中正造は、少年が驚くほどに礼儀正しく紳士的に応対しました。反抗者としての英雄像を浮かべて来た黒沢酉蔵少年には意外に感じられました。
足尾銅山は直ちに閉鎖されるべきてあると終始一貫主張する田中正造に対して、日本の工業化の為には銅山閉鎖は誤りであるというのがその当時の大半の世論でもありました。黒沢酉蔵少年にも、田中正造の主張は極論としか映りませんでした。それでも田中正造に惹かれて黒沢酉蔵少年は以後四年間、田中正造の元で助手として働きました。黒沢酉蔵。そののちに北海道にわが国最大の某乳業を創設した偉大なる経営者となった彼は、晩年になって、ようやく田中正造の主張の完全なる正しさを認識したと述懐しました。
|
|