奇将足利尊氏:第2話【叛旗】

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足利高氏は激怒した。よりによって、国運を託す出陣の大将に対し、妻子を人質に差し出せとは、どういう了見なのか。鎌倉宰相北条高時(ほうじょうたかとき)は、このたび隠岐を脱出し、各地に号令する後醍醐天皇を成敗する大役は足利氏をおいて外に無いと懇願したと思ったら、いざ出陣の直前になって人質を差し出せという。
「いかりなされ。それでこそ源氏嫡宗、武士の統領の甲斐性という物です。」
そばで足利家家老の高師直(こうのもろなお)が、涙ながらに訴えた。足利家は清和源氏の嫡宗家であり、北条氏より家格は上であるという自負は、足利一門全体のものであったのだ。
その時、「軍議の席でございます。どうぞおひかえください。」
という警護の兵の声が外からきこえ、あわただしい足音とともに母の清子が入ってきた。
「治部殿、事情はうかがいました。妻子を人質とあらば、差し出しなされ。留守の事は母者が全てお引き受けいたします。今こそ足利家の本望を成し遂げるときです。あなたの思う事を実行なされ。あなたは世が世であれば征夷大将軍と呼ばれるべきお方なのですよ。」
母の目は厳しく光っていた。軍議の席にいた一門全員がその言葉にはっと息を止め、一瞬にして同じ事を考え当主高氏の顔をみつめた。北条氏に対する謀反。今回の出陣では足利高氏は足利軍以外にも多くの鎌倉軍を指揮する。その巨大な軍勢をすれば、翻って六波羅や鎌倉を倒すことも不可能ではない。怒りにふるえていたはずの足利高氏は、母の言葉を聞いて、静かにほほえむいつもの高氏に戻っていた。
元弘3年3月27日。妻子を鎌倉に残して、足利高氏は出発した。総勢三千騎であった。途中の三河で足利一族の細川、吉良、今川などからも幕府に反旗する事を同意を得て、尾張では北条一門の名越(なご え)氏などを吸収し、京の六波羅に到着したのは4月16日の事であった。
高氏の心はすでに決していた。後醍醐天皇に密使を送り、北条成敗の綸旨を求めて、総大将自ら謀反という前代未聞のクーデターを起こそうという計画だった。
「殿、名越殿が評定にまいられました。」
高師直が、目配せしながら名越を部屋に通した。
「おお、尾張守殿。ごくろうであった。で出陣の計画はできましたかな?」
高氏はそれと悟られないよう用心しながらも幼児のように意地悪そうな含み笑いを浮かべて名越高家に言った。
それと気づかぬ名越高家(なごえたかいえ)は、上気した顔で高氏の前に座ると、さっそくまくしたてた。
「さらば、我が軍勢は4月27日に八幡山崎に向かいます。治部大輔殿は、からめての大将として西岡の方面より向かうという事でいかがでござろう。」
なんとも、今回のいくさの総大将気取りである。ますます苦笑に顔を歪めながら高氏は
「わかりました。尾張守殿が大手の大将とは心強い。いくさもすでに勝利したも同然でございます。」
と心にもない世辞を並べた。
4月27日。その日名越高家は、はやる心を抑えきれない様子で、早朝に七千騎の大軍を引き連れて六波羅より八幡山崎に向かい出陣した。足利高氏が、秘めた決意の元に五千騎にて出発したのは、それより少し遅れての事だった。出発してまもなく名越軍が千種、結城、赤松の後醍醐天皇の連合軍と久我畷にて激突したとの連絡が足利高氏の元に届いた。本来ならば援軍すべき高氏であったが、桂川の西の端にたどりついた所で全軍を止め、両軍の動きを傍観した。日和見を決め込んだのである。
両軍の戦いは互角であったが、血気にはやる若き大将の名越高家は、みずから前線で指揮を取るうちに赤松軍の矢に射られ討ち死にし、あっけなく勝敗が決してしまった。
「よし。行くぞ。」
名越軍敗北の報を待っていたように、足利高氏は全軍に出発を指示した。向かうは山崎を背にした丹波篠村であった。足利軍に従った軍勢も、さすがにここまで来ると足利高氏謀反に気づき、六波羅に逃げ帰る者も出始めたが、大半の軍勢は、六波羅の主軍を引き連れた名越高家が敗れた今は、足利高氏に従うよりないと覚悟を決めていた。
丹波篠村にて、足利高氏は、はじめて全軍に自分は後醍醐天皇に従う事を告げた。
「すでに御綸旨もいただいてある。この上は源氏の頭領として朝敵伊豆守を成敗いたそうと思う。おのおの方々もお覚悟を決められよ。これよりは朝敵成敗の大将は、この高氏である。」
おおと、集まった侍頭からときの声が上がった。
源氏の大将が起ったとの報に、近隣の豪族達が次々と集まってきた。
一番に駆けつけたのは地元の久下時重(くげときしげ)の軍勢だった。なんと久下時重の軍勢の持つ旗印には、ことごとく「一番」の文字が書かれている。
「あれは、なんだ。」
足利高氏が、いぶかしそうに、そばの高師直に訪ねると、
「聞けば、源氏の頼朝大将殿が伊豆にて立ち上がった時、久下の祖、久下重光が、まっさきに駆けつけ、勇猛に戦ったとの事であります。そのおり頼朝大将殿が、天下を取ったおりに、真っ先に恩賞を与えると約束し、その証拠にと久下の旗印に一番の文字を書かれたとか。以後、久下の旗印には一番の文字が必ず書かれるようになったとの事でございます。」
と高氏に話した。
これぞ吉兆と一同がはやし立てていると、次々と足利高氏を慕った各地の軍勢の到着の報が届けられ、足利軍は、さながらお祭のような騒ぎとなった。気づけば足利軍は、二万三千騎にも膨れ上がっていた。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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