世良田氏の謎解きに挑戦(1)

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世良田氏と徳川氏との関係の謎解きに挑戦してみたいと考えています。

《世良田氏とは》

世良田氏は、新田支族で清和源氏の流れです。

清和天皇・・・源義家__源義国__足利義康・・・・足利尊氏
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          |    |_新田義重__里見義俊
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          |_源義親・・・源頼朝|_山名義範
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                     |_新田義兼・・・・新田義貞
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                     |_世良田義季

ここまでの系図については、ほとんど異説はなく、ほぼ正確であろうと思われます。新田氏は、その名の通り上野国(現在の群馬県)の東部原野に定住し未墾地を開拓し私領を拡大しました。新田開祖の新田義重は、それぞれの領地に自分の子供達を配し、それぞれ独立運営させ、宗家が束ねるという典型的な惣領制を行いました。
そのため、子供達は各領地で比較的自由な独自の道を歩む事が出来るようになり、特に里見、山名両氏は早い時期に惣領制の枠から抜け出て新田宗家とは全く違う道を歩む事になります。その中で世良田郷を与えられた世良田義季は惣領制の枠の中に残りました。世良田郷とは、現在の群馬県新田郡尾島町世良田地区一帯を指します。

《正木文書》

 新田氏研究の一級資料に、『正木文書』という物があります。『正木文書』とは江戸時代の浪人、正木新五左衛門の家の家宝として伝わっていた新田氏に関する古文書の事です。これを書写した物を見た将軍吉宗が現物を所望し、正木家より将軍に献上されたという何やらいわくのある物です。『正木文書』が偽作でない事は各種の研究で証明されており、この浪人正木氏、かなり新田氏に近い由緒のある家と思えますが、一般に伝わるのは、新田一門の里見氏の末裔との事です。この『正木文書』は、その後将軍吉宗により群馬県新田郡尾島町世良田の長楽寺に寄進されました。この長楽寺は世良田氏歴代の墓所のある寺で、たびたび話題に出る世良田東照宮に隣接し、事実上一体化しています。現在『正木文書』は国の重要文化財に指定され群馬県立歴史博物館に保管されており、その所有者は一部が長楽寺、一部が新田岩松家の現在の当主となっております。

《新田義重譲状》

この『正木文書』の中に世良田氏の謎に関係すると思われる資料があります。有名な文書で私も何度かレプリカを見た事がありますが、長楽寺に保管されている現物は未だ見た事がありません。さてその文書のひとつが『新田義重譲状』と呼ばれる物で、内容は、次のような物です。テキスト型の制約で、多少本物とちがっていますが、文章内容はそのままです。

ゆつるこかんのこうこうの事
をうなツかをしきり
せらたかみひらツか
みつき
しもひらツか
こせんのこかんなりたの
さまたけあるへからす
このむねをそんして
百さうさたのものあんとすへし
たしかにたしかにゆツりおハぬ

仁安三年六月廿日 源(花押)
(花押)

あまり達筆とは言えない文章ですが、花押は、間違いなく新田開祖、新田義重の物です。文章を要約すると、「御前に空閑の地の女塚、押切、世良田、平塚、三木、下平塚を譲渡する。」となります。ここでいう「御前」とは誰の事かで諸説ありますが、これがこのシリーズを展開する上で非常に重要なポイントになります。具体的に誰を指すのかを証明する資料は現存しておりません。しかしその後これらの地を領有したのは世良田氏です。そこで、ごく自然に想像するならば、御前とは、新田義重の子、世良田義季の事であろうと想像できます。
しかしこれが正木文書として保管されてきた経過から想像し、嫡宗家に代々伝わったからこそ完全な状態で残ったのだろうと、新田義兼説を主張する人達もおります。また「御前」は女性の尊称であり、これは孫の足利義純を婿とした岩松氏祖の姫の事であると主張する人達もあります。
「御前」については、シリーズではもっと深く調べます。次回はもうひとつの重要文章『新田義重置文』を紹介して、この問題の核心に迫ります。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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