【風雲児新田義貞14】 |
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比叡山攻防 |
再び市街戦: |
京へ戻った新田義貞は後醍醐天皇を危険の迫った京から、ひとまず東坂本へ案内すると足利尊氏との京都決戦に備えました。すでに、足利尊氏を九州へ敗走させた最大の功労者の北畠軍は京都は安泰と故国へ帰ってしまっていましたので、いまは京を守る軍は新田義貞、千種忠顕、名和長年らを中心とする手勢でしかありませんでした。10万余の足利の大軍は、京へ迫るにしたがい益々その数を増やす勢い。今や3万にも満たない新田軍。さあどうする。 |
千種忠顕戦死: |
足利尊氏は1336年6月1日。大軍勢で比叡山を囲みました。数の上で絶対有利の足利尊氏は急戦法をとらず、徐々に包囲を狭めて行く作戦を取りましたので、こぜりあいが連日続けられました。やがて6月7日。西坂本での攻防は激烈な戦いとなり、公家でありながらみずから馬上で指揮をとり、後醍醐の理想とした公家一統をもっとも忠実に実践していた千種忠顕が戦死しました。 |
名和長年戦死: |
6月30日。一ヶ月におよぶ攻防戦に疲れた新田義貞は最後の決戦を計画しました。軍を三軍に編成し、名和長年、二条師基に二軍をまかせ、自ら残る一軍の陣頭指揮をとり敵軍内に突撃するという決死隊戦法でした。 本陣をたった新田軍は、ただひたすら足利尊氏の本陣むけていそぎました。必要なのは足利尊氏の首のみ。大将を撃ち取られた敵軍など何十万騎あろうと、たちどころに敗走をはじめる。新田義貞の目には尊氏の本陣しかありませんでした。 ついに尊氏の本陣東寺の前までたどり着きました。声を荒げる新田義貞の号令が足利尊氏にも聞こえるほどの接近でした。突然の大軍に目前まで迫られ足利尊氏軍の必死の防戦が始まりました。今は必死に戦う足利軍を前に大将の首を目前にした新田軍は一歩も進めなくなりました。もともと軍勢では圧倒的な差のある両軍のこと、時間が進むにつれ、劣勢はあきらかとなって来ます。別動隊の二条軍が破れ、またもう一方の名和軍も退路をたたれ、今、劣勢の新田本隊も退路を断たれたかたちで挟み打ちの猛攻をうけましたが、もともと決死隊に退路の計画などはありませんでした。敵大将の首をとれなければ、ここではてるよりないと覚悟の戦いでした。勝敗明らかな戦局となり、目指す足利尊氏は敵の本隊奥深く吸収され、やむなく新田義貞は退路を求め四方を包囲する敵軍の一角に突入しました。ふいをつかれて敵の包囲網の一角が崩れ、大ピンチの新田義貞でしたが、辛うじて脱出に成功したのでした。 しかし、名和長年は、完全に包囲された形で敵軍のまっただなかに玉砕してしまいました。隠岐を脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えた地元豪族の名和長年。中央での政争に巻き込まれてのあわれな最期でした。 |
後醍醐投降: |
さて巷で三木一草と呼ばれた4人がいました。一草とは千種(くさ)忠顕。三木とは結城(き)親光、楠木(き)正成、そして名和伯耆(き)守長年。いずれも後醍醐天皇を助け建武の親政に功績があり大出世した人物でした。いまは、そのすべてを失い後醍醐天皇も、敗北を認めざるをえませんでした。 その後、新田義貞は果敢な攻撃を繰り返しましたが、すでに誰の目にも勝敗はあきらかです。いまさら新田軍に援軍を出す諸将はありませんでした。 足利尊氏は、ようやく戦況が落ち着いてきて、勝利の確信ができたことで、内外に後醍醐天皇の時代が終了したことを公表する目的で後伏見の皇子を即位させました。北朝二代目光明天皇の出現です。 ここへきて、ついに逆境にめげず皇室の威厳をもって戦った不屈の戦士後醍醐天皇も、敗北を認め、足利方へ投降したのでした。1336年10月10日。ここにわずか3年の公家の世は終止符を打ったのです。以後、明治維新となるまで、約500年間。政治の表舞台に天皇が出てくることはありませんでした。 |
南北朝: |
敗残の後醍醐に、最高権力者となった足利尊氏の扱いは丁調なうえにも厳しいものがありました。従い投降した武士たちは、ことごとく斬首の刑がまっていました。後醍醐自身、花山院に幽閉され11月1日、光明天皇に正式に譲位して上皇となったのでした。京都を完全掌握した足利尊氏は鎌倉の故事にならい、「建武式目」を制定し、荒れはてた京都の復興事業をはじめ政治体勢作りと、着々と平和事業を開始しました。しかし、足利尊氏が掌握できたのは、単に京周辺のみで、一歩離れれば、全くその権威の及ばない世界がありました。12月21日。吉野へむけ脱出した後醍醐とその一族がそれらの不満分子を募って、発足したばかりの足利政権をその後50年も悩ませ続けることになるとは、誰にも予想できないことでした。 吉野山中で皇位の正統性を主張し各地に天子として綸旨を発する後醍醐の姿は足利尊氏への憎悪に燃えた元権力者が復讐の鬼と化したようでもありました。 |
北陸へ: |
さて我らが新田義貞は、後醍醐の投降に反対し徹底抗戦を主張しましたが、強く京都帰還を臨む後醍醐に遂に折れ、恒良親王への譲位を条件にこれを承知しました。神器の譲渡を終えた新たな天子の恒良をつれ、新田義貞は琵琶湖づたいに北陸方面へと落ちて行くのでした。しかし、あわれ新田義貞。恒良親王への譲位も無効とする後醍醐の裏切りの前に孤立無縁になっていったのでした。 |
著作:藤田敏夫(禁転載) |
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