【風雲児新田義貞10】 |
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竹ノ下の合戦 |
矢矧の合戦: |
「かつてない大きな戦争がはじまりそうだ。」衝撃は全国に伝わり新田軍に合流する者足利軍に合流する者が全国各地からぞくぞくと集まってきました。彼らにとっては足利も新田もありませんでした。戦に参加し、勝てば恩賞があります。負けるか、はじめから参加しなければ、いずれ必ず勝者によって領地は没収されてしまいます。勝つ方へ参戦するよりないのです。 そんな彼らの自己防衛策は知恵をしぼった生き残り作戦でした。彼らは身内を分割し、それぞれ敵味方となって両軍へ散っていきます。どちらかが不利になったら、ただちに不利になった方の側が優勢の方についた身内をたよって寝返ります。こうすることでどちらが勝っても常に勝者の側にいられることになります。まあ破格の恩賞は期待できないにしても領地安堵は保証されます。末端の協力者とは、みなこんな類ですので西より足利軍に合流する者、東から新田軍に合流する者で京都鎌倉間はごった返し、まるでお祭り前夜の雰囲気でした。 足利尊氏は、北畠軍が陸奥より到着するのは相当遅れるとみて、主力を新田義貞にぶつけることにしました。弟足利直義を三河へ送り、同族の吉良氏、上杉氏、細川氏、畠山氏らと共に三河の矢矧(やはぎ)に陣をはり新田軍をむかえうちました。 1335年11月25日。ついに両軍最初の戦闘が開始されました。 朝敵討伐軍であることを前面に意気あがる新田軍に対し、最初から防戦の構えの足利軍は、押されぎみの戦いを強いられ、じりじりと後退する間に、次々と寝返りが発生し、ついには総崩れとなって東へ敗走していったのでした。 |
竹ノ下の合戦: |
緒戦の思わぬ大敗に驚いた足利尊氏は総力戦で臨むべくいそぎ援軍を組織し自ら出馬しました。一方、足利直義軍の総崩れで士気のあがる新田義貞軍は鎌倉めざして破竹の進軍をしました。そして箱根の手前の伊豆国府、三島に到着したところで休息をとったのでした。軍勢の補給と、東山道より遅れ気味に移動中の別動隊と鎌倉同時攻撃すべく歩調を合わせることが目的でした。が、この休息が、結果的に足利尊氏を首の皮一枚で助ける結果となりました。 ここで新田義貞に、いっきに鎌倉を攻略すべく箱根峠をこえられてはおしまいです。何としても箱根峠でくいとめねばならないと足利尊氏は急ぎました。なぜなら、今の自分の立場は、半年前の諏訪頼重の立場と全く同じだったからです。あのとき足利軍は箱根を突破したことで全軍の士気が最高潮となり、勝利が確定したのでした。いまの新田義貞が、あのときの自分と同じなら、箱根峠を突破されることは、すなわちこのいくさに負けることを意味します。 足利直義のふんばりもあって、かろうじて足利尊氏は箱根に間に合いました。ここで、尊氏は一計をめぐらし、足利直義の守る箱根峠に主力を向かわせたとみせ、新田義貞率いる主力を箱根峠へ釘付けし、迂回して箱根山の北へ廻り、新田義貞の弟、脇屋義助(わきやよしすけ)が小数で向かった竹ノ下の峠へと援軍の全軍を引き連れて向いました。 1335年12月12日早朝。足利軍数万の主力をむかえ脇屋軍は浮き足立ち、大友貞載、塩冶高貞らが寝返って、一挙に崩れてしまいました。脇屋軍には尊良親王が同行しており、これを守る二条為冬が討たれたために、やむなく脇屋義助は尊良親王を警護し、新田義貞の本隊と合流すべく、竹ノ下から退きました。 先手必勝の論理が通用するなら、この小さな戦いは、戦さ全体に影響するはずです。足利尊氏の思惑通りの事がおこりました。箱根峠で援軍のこない足利直義軍と押しぎみに戦い、まさにその防衛線を突破しようとしていた勢いの新田義貞軍に突如変化がおこったのです。このままでは竹ノ下を突破した足利尊氏に背後をつかれ挟み打ちにあうと危惧した新田義貞が、全軍を三島まで後退させてしまったのです。 勇将新田義貞の大誤算でした。「寝返り」を特徴とする戦さに後退は許されなかったのです。後退を始めた新田軍を敗退とうけとめた諸将が、つぎつぎと寝返りをはじめ三島に到着したころは、新田義貞軍は半数にも満たない劣勢になってしまいました。 敗走する新田義貞、勢い進軍する足利尊氏。たった一日間で、攻守の立場は逆転したのです。 無念。義貞は自分の采配が敗北を決定的なものにしてしまった事を悔いながら、みずからしんがりをつとめ西へむかい敗走して行きました。 |
戦いの意味したもの: |
この戦いで終始両軍を支配していたものは、戦いに生きる武家の血でした。そこには、官軍賊軍といった中央での区別など何の意味もありませんでした。まさに源氏嫡宗家を共に名乗る新田家足利家両家の武家の頭領を決するいくさだったのです。ふたりは共に、この戦に勝利したものが天下に号令する鎌倉将軍となると信じました。そして随行した多くの豪族も同じ考えでした。すい星のごとく現れ、絶対不可能と思われた鎌倉をいとも簡単に滅ぼした新田義貞。全国一の勢力を誇る足利尊氏。武士達にとっては、どちらも魅力的な頭領としての風格をそなえていました。それが寝返りの多発を引き起こしたのでした。戦いの盛り上がりは、つまり後醍醐天皇の目指した建武の親政が完全崩壊したことの証でした。 |
著作:藤田敏夫(禁転載) |
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