【風雲児新田義貞 4】

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義貞挙兵!!
北関東の風雲児:
元弘3年5月8日。(1333年)上野国新田荘は生品神社の境内。ここでひとりの男が天下取りの壮大な夢を胸にたちあがろうとしていました。新田義貞32歳。御家人とは名ばかりの土豪であり、一族としての惣領権はすでに同族の世良田、岩松両家にうつっており、祖先の開拓した壮大な領地も相続のたびに細分化され、わずか残った領地も当時、独裁政権をほしいままにしていた得宗により得宗領とされていたのです。清和源氏の由緒ある名家。それが伊豆の土農上がりの北条家の得宗独裁政権により、生活に窮するほどにまでおい落とされてしまっている。新田家にとって、これほどの屈辱はありませんでした。
頼朝のもとに集まり共に戦った多くの関東武士団が、北条の独裁により滅亡してしまいました。滅亡しないまでも、没落させられたも同然の新田家のような御家人もかぞえきれないほどでした。得宗独裁により困窮しているいま、だれかが幕府を滅ぼす必要があるのです。幕府は足利高氏ひきいる大軍勢を後醍醐天皇の船上山へむけ送り込んでいます。鎌倉は手薄なはずです。この機会をのがし挙兵のチャンスはありません。
いざ出陣!!目指すは鎌倉。
挙兵:
それは気がふれたとしか思えないほど無茶な出陣でした。あの強大な得宗相手にむかうは新田騎馬武者総勢150騎。隣国との水争いにさえてこずっていた一族が、まるで特攻隊のような出陣だったからです。しかし新田義貞には計算がありました。鎌倉幕府開祖の源頼朝が敗走しながらも房総よりゆっくりのぼり自分が武士団の頭領としての資格を有する源氏本流であるをよりどころとし関東各地の武士団に号令し成功した故事をそのまま実戦するつもりだったのです。これは命がけの大バクチです。裏目にでればほんの数時間で決着するほどあっさりと負けるいくさです。
新田義貞は自分こそが清和源氏の嫡流にて八幡太郎の末えいとして挙兵したことを各地の武士団に告げ、鎌倉の北条家討伐のため自分の元に集まるよう呼掛けました。八幡大菩薩を信奉する関東武士団にとって、それは神仏の号令にも似た響きだったはずです。しかも京からは足利高氏による六波羅陥落の情報。鎌倉幕府はこれまで。と多くの御家人たちが感じとりました。各地よりぞくぞくと独裁政治に不満をもつ関東の武士たちが集まってきます。幕府軍との最初の大戦闘があった武蔵の小手指ケ原のあたりに新田軍が到着したころには、すでにその数2000。しかしこの時点でもまだ幕府軍の優位はかわりませんでした。新田のよせあつめ集団は3000の幕府軍に、緒戦から敗退してしまったのです。
しかし時の流れは誰の眼にも幕府滅亡は時間の問題と映っていました。たとえ新田義貞が敗退しても次には足利高氏が皇軍の将として大軍隊をもって鎌倉へなだれ込んでくるはずです。敗退したにもかかわらず新田軍に同調する関東武士団は後をたたず、やがて陣営をたてなおした新田軍はその後、府中の分倍河原で圧勝し鎌倉に到着したころには総勢5000の大軍になっていました。
平将門か源頼朝の再来と人々は新田義貞をおののき見つめ、遅れまいと続きます。関東武士団は古くより人脈により動くとされていました。平将門、源頼朝、新田義貞に共通するのは、かならずしも元々強力な勢力をもつ武士団を統率していたわけではないのに、短期間で関東一円を制圧する統率力を発揮したことです。(将門は結構勢力をもっていましたが)それは「武家の頭領」を求める関東の武士達の特性でした。そして、やがてその関東人気質は徳川家康により封建体制として開花したのです。(以上は私の史観:関東人気質)
著作:藤田敏夫(禁転載)
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