【風雲児新田義貞 2】

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足利高氏登場
良家のおぼっちゃん:
当時の関東武士が武家のなかで血筋について語るなら、清和源氏の流れを引くかどうかが最大のポイントになっておりました。武家の最高名誉職である所の「征夷大将軍」になるにも清和源氏・桓武平氏らの血統の良さがぜひとも必要だったのです。北条の執権政治や秀吉の摂関政治も、この血筋のための苦肉の呼称ですし、松平家康が源氏の傍流であった徳川を名乗ったのも、この血筋の重要性を彼が早くから認識していたからと言われているのは有名な話です。
鎌倉の足利家は源氏の嫡流として幕府より公認された名門でした。なにしろ一般では北条より血筋の良い家柄として知られておりましたので武士団よりの信望も厚く統率力に欠ける末期幕府にとって誠に頼りがいのある親戚という事になります。なぜこれほど幕府より厚遇されていたかは、後の話にしておきますが、まあ、鎌倉の武家屋敷のなかでは、北条一門ではないにしても、ほぼ同じ待遇であったことは確かなんでしょうね。

時に1333年4月。足利家の若大将、足利高氏は幕府最後の切札として総大将に任命され、後醍醐天皇の立てこもる船上山めざし鎌倉を出発しました。この時、高氏28歳。はたらき盛り。ところで清浄光寺につたわる馬上の尊氏像は別人との説が有力ですが、(輪違いの紋より、家臣の高師直だろうと推定され定説として定着しつつあります。)本当の尊氏はどんな人物だったのでしょうね。どうも私のイメージには都会育ちの良家のぼんぼんで色白。武家装束のあまり似合わないぼっちゃんの姿が浮かぶのですが。
時代の流れ:
時の流れはどうなっていたのでしょうか。足利高氏の率いる幕府軍が西上する頃は、全国の倒幕機運は最高潮に達していました。千早城での楠木正成のねばり、吉野の護良親王(もりよししんのう)の挙兵、後醍醐天皇の隠岐脱出。すべて倒幕派を勇気づける好材料となり、次々と地方武士団の旗揚げがおこなわれ始めました。そしてその中心は何と行っても船上山にて地元の名和長年(なわながとし)にまもられ各地に号令する後醍醐天皇でした。
高氏の決断:
さてこの遠征で足利高氏はどんな心境の変化があったのでしょう。京都通過後、船上山めざした足利高氏が突如軍を反転させて、幕府の拠点である六波羅探題を攻撃、幕府軍の大将が一転、倒幕の先鋒になるというドンデン返し。日本初の記念すべき本格的な軍事クーデターはその奇襲の鮮やかさによりみごとな大勝利。一進一退を繰り返していた倒幕派がいっきに勝利するという急展開でした。
このときの高氏の選択は、なにゆえの反旗だったのでしょう。高氏にとって最も重要だったのは幕府派か倒幕派ではなく武家政権の崩壊か立て直しかという点であったはずです。独裁色を強める一方の幕府。それを倒し公家に政権を取り戻そうとする後醍醐天皇派。しかし倒幕派とは、本来そのどちらでもない勢力でした。その中心で活躍したのは新興勢力の幕府の保護外に置かれた武士団だったのです。かれらは自分達の世界を作るための新しい第3の勢力だった訳ですから、指導者はあくまでも武家の統率者であってほしかったはずです。待望される新指導者。家柄。勢力。統率力。そのどれをとっても第一人者は足利高氏ということになります。高氏の反旗は高氏自身の孤独な決断ではなく、世論に押されてといったほうが正しいのではないでしょうか。
鎌倉幕府がそれに気付かないほど無能であったわけではなく、遠征にあたり足利家の嫡子は人質として鎌倉に残されました。なんと足利高氏の決断は、たった4才の幼少のわが子の生命と引き換えの大決断だったのです。
注記:大塔宮護良親王は、戦前は「だいとうのみやもりながしんのう」と読まれていましたが、最近の研究では「おおとうのみやもりよししんのう」と読むのが正しいだろうということになっておりますので、ここでもそれに従いました。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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尊氏足利尊氏