【南風 1】関城の書
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南朝の大計画

1338年9月9日、南朝方は、八方ふさがりの行き詰まりを打開する大作戦を決行しました。義良親王が、南朝の主だった重臣をひきつれて、伊勢の大湊より海路東へむけ出発したのです。目的地は奥羽。
あの強力な戦力にみたび頼って、いっきに京にかけのぼるのが目的でした。同行する主な者は、北畠親房、北畠顕信の親子、結城宗広、伊達行朝。そして、別動隊として宗良親王、新田義興、北条時行に関東をまとめさせて共に京都進行を計るという周到な計画でした。親同士が、敵になって歴史的な戦闘をおこなった新田、北条が、共に協力して共通の敵足利尊氏と戦おうとしている様は、なんとも歴史の皮肉でした。しかし、彼らの決意に非情にも天は味方しませんでした。予期せぬ台風に遭遇し、主な重臣は辛うじて助かったものの、

義良親王、北畠顕信     =伊勢の御崎
結城宗広          =伊勢の安濃津(当地で死亡)
北畠親房、伊達行朝     =常陸の東条浦(常陸の小田城へ)
宗良親王、新田義興、北条時行=遠江の城輪港(遠江の井伊谷城へ)

と、飛散してしまったのでした。

関城の書

さて、常陸の小田治久をたよって小田城へ入った北畠親房は、計画を変更し、ここを拠点に関東経営を行おうと試みました。同行した伊達行朝は伊佐城に入り、関城の関宗祐、大宝城の下妻政泰らとともに常陸内に合計7城を確保し、ここに南朝最大の拠点が出現したのです。
1341年11月、足利幕府も、さすがに脅威を感じ、高師冬を大将とする遠征軍を常陸に送り、北畠親房の小田城を包囲しました。
さて、城主小田治久は思わぬ幕府の大軍を前に狼狽し、あっさりと投降してしまいました。北畠親房は、やむなく関宗祐の関城へ、吉野から呼んであった興良親王と北畠顕時は下妻政泰の大宝城へと逃れたのでした。
関城へ逃れた北畠親房は、足利軍の包囲に孤立しながら、白河の結城宗広の嫡子、結城親朝に援軍を求める書状を出しました。かつての奥羽軍の主軸、結城軍が起てば呼応して隣の宇津峰城(現在の須賀川)に入城した北畠顕信も援軍を出すことが可能です。
しかし結城親朝は、動きませんでした。北畠親房の悲痛な絶叫にも似た、再三の催促状は、その数70通にも達しました。
1343年6月。ようやく動いた結城親朝は、何と、こともあろうに足利側の軍として北畠親房を攻撃してきたのでした。結城親朝の日和見に破れた南朝は、ここに関東経営の拠点を完全に失ったのでした。陥落した大宝城を逃れた興良親王は、小山城の小山朝郷、宇津峰城の北畠顕信、石巻の葛西清貞、信夫の伊達行朝と頼り、北へ北へと逃れましたが、ついに再起はならず、北畠親房の奥羽軍の夢は、ついに消え去ったのでした。
著作:藤田敏夫(禁転載)
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