北斗の星、千葉氏伝(12)
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《千葉重胤(ちば・しげたね)》
馬加康胤の反乱で千葉介の正統が絶えた衝撃は京都の将軍足利義政をも驚かせました。このような下克上が蔓延する事を恐れた幕府は、千葉一門の東常縁を総大将とする馬加康胤討伐軍三万を下総に派遣しました。東常縁は本領の下総国東荘の須賀山城(香取郡東庄町須賀山)に入り、ここから馬加康胤を本格的に攻撃しました。康正2年(1456)馬加康胤の馬加城はついに陥落し、上総国に逃走した馬加康胤は上総八幡(市原市八幡)にて壮絶な最期を遂げました。
宗家千葉介は東常縁に降伏した馬加康胤の三男の千葉輔胤に渡されました。千葉輔胤は父とは正反対に穏やかな性格の人物でした。彼は政争を嫌い領地争いの元凶となっている亥鼻城を廃止し、長禄元年(1457)、千葉介の本城を印旛の本佐倉城(印旛郡酒々井町)へ移しました。以後、千葉荘の地は主を失い江戸期に貿易都市として復活するまで寂れた漁村となるのです。
本佐倉城、臼井城(佐倉市)、鹿島城(佐倉市)と、佐倉近辺に再び栄えた馬加氏系千葉氏の為に、佐倉周辺は下総国の中心地としての重要な大都市に発展しました。
やがて時代は戦国の世となり、千葉氏最後の領主になった千葉重胤は、小田原城の北条氏の要請に従い一門を引き連れて豊臣秀吉軍の侵攻に備えましたが、小田原城陥落とともに戦わずして降伏しました。敵対した事を許されず、その全ての所領は没収され、寛永10年(1633)、千葉重胤は江戸にて病没し、ここに栄光の千葉氏の歴史は終わったのでした。
ちなみにこの最後の千葉氏の砦となった鹿島城の場所は、江戸時代の名老中土井利勝が佐倉城を築いた場所で、現在国立歴史民俗博物館が建っております。

さて妙見観音像は千葉胤直により佐倉の寺崎城に放置された後、金剛授寺に戻され、以後ここが妙見宮、妙見社、妙見寺、千葉神社と変わっても、千葉氏の興亡にかかわる事もなく近年まで継がれてきたのだそうです。しかし木像の観音像は、明治37年(1904)に失火の為焼失、神主の機転により守られた七星剣は、今でも千葉神社の秘宝として大切に保管されているという事です。

(完)

(参考:千葉氏系図:千葉大系図)

__馬加康胤__千葉輔胤__孝胤__勝胤__

__千葉昌胤__利胤__富胤__邦胤__千葉重胤
著作:藤田敏夫(禁転載)
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