【土偶の詩人 坪井正五郎 1】
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《コロボックルに魅せられた男》
『石器時代に、東北北海道に住んでいたのは日本人の祖先でもアイヌ人の祖先でも無かった。彼らはアイヌ人によりコロボックルと呼ばれていた。エスキモーと同族で男は髪の毛を剃りあげ、女子は顔に入れ墨し、竪穴に蕗の葉でふいた屋根の家に住居し、家の外では衣服をまとい、家の中では男女共に裸だった。背丈は一様に低く、貝を主食とし漁業が巧みだった。やがて彼らはアイヌの北上とともに北方へ去っていった。』
我が国の考古学の創始者、東大理学博士の坪井正五郎は熱く語るのでした。これは夢多い学者だった坪井正五郎の偉大なる足跡をたどるお話です。
《白井光太郎との出会い》
坪井正五郎は文久3年(1863年)、江戸両国の矢ノ倉で幕府の奥医だった坪井信良の家に生まれました。坪井家は正五郎5歳の年に維新の混乱を避けて静岡に移住しました。ここで坪井正五郎は大自然に育まれ植物採取を好み、スケッチするのが好きな少年に育ったのでした。この観察しスケッチを取るという正五郎少年の遊びが、後の偉大な業績に結び付く事になるのです。
明治6年、新しい都になった東京に再び戻ってきた坪井正五郎は、これからは学問の時代であると説く父の薦めに従い11歳にて湯島麟祥院湯島小学校に入学したものの、教える教師が舌をまくほどの明晰な頭脳で、翌年には神田淡路町共立学校に移り、またその翌年には東京英語学校に移り、さらに翌年には東京大学予備門に入学するという秀才でした。当時の坪井正五郎は、考古学とはまるで無縁の世界で活動しており、友人達は彼が文学の世界に進むであろうと信じていたほどでした。この年、モースが大森貝塚を発見したことも、当時の坪井正五郎には興味の無い話だった事でしょう。
4年後、東京大学予備門を卒業した坪井正五郎は、東大理学部生物学科に入学しました。この学部を選んだ事にはさほどの意味もなく、幼時に植物に親しんだ事などの漠然とした理由によるものでした。ここで彼は生涯の進む道を決定する大切な友人達に出会ったのです。先輩の佐々木忠次郎、同輩の白井光太郎、佐藤勇太郎、駒場農学校の福家梅太郎などといった人達でした。とくに白井光太郎とは生涯をかけた論争を戦わすよきライバルとなるのでした。
この年、気のあった福家梅太郎と目黒村にて石器時代の遺跡を発見し「目黒土器塚考」という論文を東洋学芸雑誌に発表したのが、坪井正五郎の考古学への道の第一歩でした。
《弥生式土器》
坪井正五郎21歳の年、彼は友人から預かった完全な形をした土器を前に考え込んでおりました。古土器に関心を持ち調査していた友人によると、それは学校の敷地内の一角に埋もれていたものだそうで、その、ややひしゃげた円形で、表面にはなんの模様もなく通常みかける縄文のついた貝塚土器とはあきらかにおもむきが異なり、全体に無紋の土器をはこれまで見た覚えのない異質な感じを受ける土器でした。
どこで発見されたものかは、おおまかにしか聞いていなかった坪井正五郎は、大学近くの弥生町内の貝塚あたりであろうと見当をつけて友人達と調査に向かいました。日本での貝塚発見のモース教授はすでに教壇からは去っていましたが、感化された坪井正五郎が、教授の発見の足跡をたどろうと大学の近くの貝塚を調査したのはごく自然の事でした。貝塚の現場に立ち、開発で貝塚が破壊されようとしている現実を見て、出来る限りの記録を残しておきたいと考えました。調査とは言っても発掘調査するほどのおおげさなものではなく、当時は貝塚などに特別関心を持つ人はありませんでしたから、貝塚に混じり土器片もそこかしこに散在していました。坪井正五郎の行った調査というのは、ただそのあたりに散在している貝殻や獣骨や、土器や石器を集めて歩くというだけの極めて原始的な調査でした。拾い集めた物を持ち帰り。細かく分類し、記録に取るというだけのもので、大半が完全な形のものではありませんでした。
坪井正五郎は、友人から預かった土器を、その貝塚から発見されたものと思いこみ、丹念にスケッチし、『帝国大学の隣地に貝塚の痕跡有り』という論文を東洋学芸雑誌に発表しました。後にその地の名を取って「弥生式土器」と名付けられた世紀の大発見は、こうして当時名もない青年だった坪井正五郎によっておこなわれたのでした。
ところで、この話には後日談がありまして、彼の友人が発見した弥生式土器は、実は坪井正五郎が調査した弥生町の貝塚から出土したものでは無いことが近年確認されました。弥生町の貝塚土器は、明らかな縄文式土器であって、弥生時代の遺跡ではなかったのです。つまり弥生式土器の語源になった弥生町の貝塚遺跡は縄文時代の遺跡だったという、何ともややこしいお話です。
 
著作:藤田敏夫(禁転載)
 
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