「本当の栃木県の歴史」は、私が独自の自由な発想の元に楽しくお話するものです。学問的なお話は、その道の専門の方にお任せすることにして、閑話としてお楽しみください。そして、ぜひみなさまのご感想もお寄せください。
 
那須与一は那須の人ではなかった?
 
まず那須与一(なすのよいち)という人は、どういう人なのかお話しましょう。
那須与一は、源氏と平家が戦った屋島の合戦の時、源氏の武士の中で最も弓矢が得意と言われた武士でした。いまの栃木県那須地方を治めていた豪族と伝えられています。
海上の平家軍と陸上の源氏軍がにらみ合いを続ける中、平家の小舟が一艘現れ、扇の的を掲げて手招きします。
この的を射てみよ、という意味でした。源氏方に失敗させ、笑いものにして士気を失わせようと言う作戦でしたが、那須与一はこの難しい場面でみごとに扇の的を射止めます。
この那須与一の「弓矢の誉れ」の話が現代に伝わり、現在の大田原市が那須与一の出身地として毎年盛大な祭りもおこわれるのですが、実はこのお話の書かれた平家物語や、その時代近辺に書かれた書物には、那須与一は那須地方の出身だったとは書かれていないのです。
那須与一は、源義経軍の中でも、とても身分の低い武士でしたが、当時から広大な那須国の統率者やあるいはその一門であったなら、それほど低い身分とも思えず、どうも不自然です。
従って那須与一は那須の人、と決めつけることはできず、もしかしたら別の場所の出身であった可能性も捨てきれない、というお話です。
伝承と学問上の証明とは、大きく異なる場合がありますので、気をつけないといけませんね。

(2008/5加筆)

 

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