【不屈の田中正造伝: 9 大弾圧川俣事件】

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農民の窮状を一身に背負って、田中正造は国会質問という正攻法で政府と何度も戦った。田中正造は政府が憲法を尊守すれば必ず正しい方向で解決すると信じていた。
国会内で、田中正造が壇上にあがると、また足尾鉱毒の演説が延々と続く事を知る多くの政府要人や同僚議員さえうんざりした表情を見せるようになっていた。それほどに執拗な田中正造の攻撃に政府は相変わらず全くの無視を続けていたのである。
しかし田中正造の情熱に世論は引きずられるように盛り上がり、ついに明治30年5月27日、世界で初めてと言われる「鉱毒予防命令」が政府から出された。盛り上がる世論に初めて政府が屈したのであった。
足尾鉱山に対し、巨大な沈澱池と濾過池を20箇所に作る事、現在積まれた鉱毒を含む鉱碎の山の周囲に深い堀を作る事などの具体的な予防策を命じ、完成工期も厳格に定め、背いた場合、ただちに鉱業停止を命令すると言明していた。また山林伐採の制限と植林も義務づけるという、古河市兵衛と政府の癒着度から考えると信じられないほど厳しい内容であった。
田中正造は、当初からの要求である鉱業即時停止が認められなかったのは残念に思ったが、おおむね満足した。しかし本当に履行されるとは信じなかった。これで鉱毒問題も一段落と判断した人々から、ふたたび田中正造は孤立した。
古河市兵衛の行動は早かった。もはや足尾の殿様となっていた古河市兵衛には、足尾の町民を自由に使役する権利を有していた。町民の大半を無料奉仕に駆り立てて約束の工事は突貫作業で進められた。町民の中には鉱山とは直接関係の無い者も多くいたが公共事業への奉仕活動のごとくかり出された。しかし、なぜか政府の監督下で進めよとの条文を無視し、工事は部外者を完全排除した中で行われた。予防措置が期限内に完成した事は足尾鉱山より大々的に発表されたが、政府は、その完成後も、完成した工事を視察しようとしなかった。
わざわざ現地に出向いて確認しようとするジャーナリストも皆無であった。そして、なぜか「鉱毒予防命令」を発した東京鉱山監督署の南挺三は、足尾鉱山所長となって古河市兵衛の元へ就職していったのであった。足尾問題は画期的な解決方法で完全解決したと信じた世論は、もはや足尾鉱毒問題には何の関心も示さなくなった。
しかし、明治30年9月に発生した洪水は、またもや農民を失望させた。「鉱毒予防命令」の前と、全く変わらぬ被害が発生したからであった。決死隊を組織した農民は、要塞化した足尾の町に潜入し、予防措置の工事など全く何の役にも立たない形ばかりの物であった事を暴いた。「鉱毒予防命令」とは、またもや政府と古河市兵衛の共謀した民衆だましの茶番だったのである。田中正造の疑念は、またもや最悪の方向で当たった。
明治31年、ついに農民による大規模な騒動が発生した。以前の騒動のおりに集結した雲龍寺に3000人の農民が集結し、大挙請願(押し出し)を強行したのである。2月に発生した押し出しは、岩槻の町まで到達した時点で阻止された。
しかし、その年の9月にまたもや発生した洪水と鉱毒による致命的な被害に怒りを抑えられなくなっていた農民は一万人にも達していた。危険だ。田中正造は、直感した。素手で立ち向かう農民が何万いようと権力者に取っては、目の前のハエを追う程度の感覚しか持っていない事を田中正造は良く知っていた。たとえ結果的に勝利しようと、その代償は、大きすぎる。田中正造はひとり、行進する農民達の前に立ち、必死に説得した。最も信頼する人の説得に農民達も応しないわけにはいかなかった。
「もし、私の要求が政府に通じぬ時は、みずから先頭に立って死を決する覚悟であるから、この場は帰郷してくださらぬか。」田中正造の言葉を農民達は信じ帰郷した。後に田中正造が、最も大きな過ちてあったと後悔した出来事であった。
単なる売名行為と酷評されてもなお、田中正造には政治家の理念を信じ国会の場で追求を続けるより無かった。腹黒い資本家と政治家の癒着を追求する者としては、あまりに純真すぎる男であった。
明治32年4月14日、この純真で正義感の強い田中正造は、その年成立した議員の歳費加増を認めた法案に反対する意志を示し、歳費全額辞退を表明した。国会議員たるもの、自らその歳費を決定する権利を持っているのであるから、自ら慎む事が議員の「品位」という物である。というのが田中正造の主張であった。この道理にかなった主張は、田中正造にとっては、ごくあたりまえの発想だったが、世論の反響はすさましかった。今までこれほど単純明快な正義を貫いた政治家は皆無だったからである。たしかに、一部には人気取りの猿芝居と酷評する者もあったが、大半の世論も選挙区民も、彼の行動を支持した。
明治33年2月13日。この日、相変わらず田中正造は国会において同調していた議員でさえ、うんざりした表情をみせるようになってたい足尾鉱毒問題を再度持ち出して、政府を追求していたが、同時刻、地元農民達は5度目の押し出しの為に集合していた。
農民達の行進は、利根川の渡しで、まちうける警官隊によって阻止された。50名負傷、うち15名は重傷という「川俣事件」と呼ばれた事件であった。死者こそ出なかったが、新聞各社は窮状を訴えようとする農民を政府警察が暴力で鎮圧したと書き立てた。
すぐさま田中正造も国会の場で「先に毒、そして今回は官史で人民を殺傷した」と責めたてた。そして同時に、憲政党を脱党して政党のふがいなさを身を持って諌めた。明治33年12月。川俣事件逮捕者の支援に法廷を傍聴していた田中正造は、検事の論告中おおあくびをして逮捕された。それは、彼が過去何度か味わった偽りの正義に対する精いっぱいの批判であった。
翌年の3月23日、61歳になっていた老議員は、最後の力を振り絞って情熱を込めた国会質問を行った。
「崇高な憲法といえど、憲法の番人に徳なければ無価値となる他はない。」
憲法を正しく施行しない政府に対するやり場のない怒りをこめた演説であった。疲労のあまり、演説もとぎれとぎれになり、苦痛のあまり今にも倒れそうな老体を鞭うつように、一言一言、ゆっくりと田中正造は気迫を込めた演説を締めくくった。
「質問にあらず。回答せず。」
田中正造の国会活動に対する政府のたった一行の最終回答があった。その年の10月、圧倒的な地元有権者の支持の元に再選し続けていた田中正造は、秘めた決意を胸に正式に衆議院議員を辞職した。その意味を知るのに人々は、あと2ヶ月待たされる事になる。

 

 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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