奇将足利尊氏:第10話【院宣】

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わずかなあいだに九州一帯を制圧した足利尊氏は、休む間もなく京都を目指す決心をした。日和見していた九州一帯の諸豪族も、先を争って足利軍に従うべく合流してきた。巨大な軍勢を率いた足利尊氏は、ついしばらく前に、敗軍の将として落ち延びてきた同じ瀬戸内の海路を、京に向かって進発した。足利尊氏には不思議な魅力があった。いつの戦においても、昨日の敵が降人となると、それを全て許す心の広さが、一所懸命に領地を守るために戦う武士団に、とても評判が良く、戦の最中もいつも絶やさぬ静かな微笑みが従う者達に安心感を与え、奇跡を信じさせてしまうのだった。九州一帯を、驚異的な短期間で統一し、ふたたび天下を狙えるほどに回復できたのも、この足利尊氏のカリスマ的な魅力が大いに役だった。
しかし、今回の再起軍を統率する足利尊氏の表情にいつもの微笑みが消えていた。
「殿、いかがなされた。いつもの微笑みの尊氏公と呼ばれたあのお顔をお見せ下され。新田義貞なぞ何の手強いことがありましょうや。」
高師直は、いつになく元気のない尊氏を気遣って声を掛けた。
「なあ師直よ。この戦は一体何を求めての戦いなのだろうか。この尊氏は、お上の元で働き世の秩序を守る武門の主になろうと努力していただけなのに、どこをどう掛け違えたのか、いまではお上に逆らう大逆人として京を目指している。いまの尊氏にとって、敵とは誰か?お上なのか?」
そうつぶやくように吐き捨てると、足利尊氏は、鎧を上下させて大きく溜息をついた。
「そこですぞ殿。まさに、そのことのために京より三宝院の僧正賢俊殿がさきほど到着してお目通りを待っておりまする。お会い下さいますよう。」
意味ありげな高師直の言葉に、何事かといぶかしそうに尊氏が振り返ると、そこには赤松円心の三男則祐がかしこまって平伏し、その隣に賢俊らしき僧が、やや無愛想に立っていた。
「足利尊氏殿、お目にかかれて祝着に存じます。これにある書状は、持明院の上皇よりの院宣です。尊氏殿に上洛を命ずる勅書ですぞ。」
賢俊は、事情を飲み込めずに立ちつくしている足利尊氏に、挨拶もそこそこに勅書を差し出した。本来ならばそこそこの儀礼をもって勅命を申し渡す立場であるのにという不満顔を露骨に出しながら、賢俊は、さも大切な勅書を手渡すように尊氏に両の手で手渡した。
「これはいかなる意味か?」そう言いたげな困惑した顔で足利尊氏は高師直の顔を見た。
「殿、おめでとうございます。上皇様からの院宣は、鎌倉殿の昔より、最も権威のある勅命ですぞ。これにて我が軍は官軍としての大義名分をもって、朝敵征伐の軍を都に進めることができるのです。新田義貞めは今日より賊軍に落ちたのでござるぞ。」
語気強く言い放つ高師直の声に、次の瞬間、沈んでいた足利尊氏の顔が一瞬赤らんで、口元に微笑みが浮かび、「おおいつもの殿の顔が」と、そばにいた誰もが安堵の表情を見せた。
これは高師直と、赤松円心の苦心の演出であった。鎌倉での尊氏が、天皇の命に服し出家しようとして周囲を困らせた事を思い起こしていた高師直は、ふたたび天皇に弓矢を向けることになる上洛戦にあたり、ふたたび躊躇している足利尊氏の心をなんとかせねばと、播磨にて新田軍と対峙していた赤松円心の老練な知恵にすがるべく相談していたのだ。
赤松円心からの返答は、「武士の世では、親政の世と異なり、天皇の綸旨よりも上皇の院宣を最も権威あるものとしている。今の上皇は、皇位を奪われたままになっている持明院さまであるから、院宣を給われば、かならずや足利尊氏殿に上洛して新田軍を討てと命ずるであろう」というものであった。高師直は秘密裏に赤松一門とともに、仲介役の賢俊僧正を介して院宣を手に入れることに成功したのだった。
昨日までの憂鬱が、まるで嘘であったかのごとく足利尊氏の動きが活発になった。三日のうちに停泊していた厳島を発ち、備後鞆の浦に入り、塩の流れを見計らって、ついに決戦場となる湊川目指して足利尊氏を頂点とする九州四国中国の大軍勢が海から陸から進軍を開始した。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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