奇将足利尊氏:第7話【竹ノ下】

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鎌倉の足利尊氏、京の新田義貞の対立が表面化した。文書合戦による政治駆け引きは、互いに相手の非を天皇に訴える奏状に始まり相手方討伐の綸旨を乞うという物であった。天皇は双方の扱いに苦慮したが、坊門宰相清忠が進み出て、
「鎌倉に幽閉の身であった護良親王を足利直義が殺害したとの事です。」
と報告するにおよび一気に逆賊足利尊氏追討と決定し新田義貞に命令が出された。新田義貞は官軍として足利尊氏の待つ鎌倉に向かった。三条河原にさしかかった時の事である、にわかの突風で朝廷より賜った錦の御旗に打付けてあった金と銀の月日の紋が地面に落ちた。
「おお、なんと不吉な」
それを見ていた従軍の兵から声があがった。新田軍に従軍しているのは、大半が関東の軍勢だった。対する敵も関東の軍。彼らには京の都の連中により、身内を敵に戦わされる不満があった。
一方の鎌倉では評定の席で、足利尊氏がやはり新田軍との全面戦闘をためらって、今回の戦を避ける方策を練っていた。
「親王殺害と、誤解を招く軍勢催促を行った事を謝罪し、剃髪する事で朝廷に対し恭順の意を示そうと思う。」
官軍との正面衝突を避けたいと計る足利尊氏の方策に、甲冑姿で評定の席に出席していた諸将はいずれも納得しなかった。上杉道勤、細川和氏、佐々木道誉、足利直義らを中心とした強行派により三河出兵が決定した。
三河国矢矧(やはぎ)川をはさみ、両軍は激突した。新田軍は常に優勢に戦い、足利直義を大将とする足利軍は徐々に東へと退いていった。途中味方が続々と新田軍に寝返り、側近の佐々木道誉までも寝返るありさまであった。
箱根の峠にまで追いやられた足利軍を見て、ついに消極策を捨てた足利尊氏が手勢を連れて箱根に向かった。箱根が破られれば鎌倉は落ちる事を先年の北条時行との戦いで良く知っていたのである。足利尊氏は新田義貞本軍と足利直義軍の激戦の行われている箱根峠には向かわず、新田義貞の弟の脇谷義助が少ない軍勢で戦っている竹ノ下へと向かった。足利尊氏軍の総力を挙げて敵の弱い部分に突進する戦法は、足利尊氏が経験であみだした物であった。いくさは勢いである。勢いの良い方を見て日和見が援軍すれば、自然と勝機をつかめるというものであった。この竹ノ下でも尊氏の戦法は見事に当たった。さっそくに一度は敵に寝返った佐々木道誉が新田軍の中心部で寝返り、混乱した脇谷義助軍は、狭い峠道を新田義貞軍めがけて逃走を開始した。大軍が狭い峠で統率を失い、あとは自滅するように西に退却を始めた。
 

著作:藤田敏夫(禁転載)

 
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