奇将足利尊氏:第1話【千早城】
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笠置山での戦いに敗れた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)一派は、ことごとく捕らえられ、当の天皇は承久の乱の例にならい隠岐配流ときまり、佐々木道誉(ささきどうよ)らの手により都を落ちていった。1332年早々の事であった。鎌倉御家人の中でも筆頭格にあった足利家の若き当主足利高氏(あしかがたかうじ)も、乱の治まったのを見届けると、洛中を後にして鎌倉へ帰った。
しかし、それがこれから始まる大乱の序章であったとは、のちに大乱の主役となる足利高氏ですら思いもしない事であった。
やがて4月になると、京から楠木正成(くすのきまさしげ)復活の知らせが来た。後醍醐天皇の皇子の大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王を奉じての決起であった。
足利高氏は、一族評定の場で、勧修寺家の一族として公家の情勢に詳しい上杉憲房(うえすぎかねふさ)に尋ねた。
「大塔宮とはどの様な皇子なのか?」
上杉氏は、足利家の家臣団の中では外戚の立場にあり、評定の場では居並ぶ内戚の先の末席に位置していたが、当主高氏の母方として実質的には筆頭家老の高(こう)氏と並ぶ地位に座していた。足利家の当主になる資格と言えば、本来は本妻である北条家から嫁した妻の産んだ嫡子が就くのが代々の習わしであったが、早世した足利家嫡男にかわり、当主を継いだのは庶子の足利高氏であった。足利高氏は、祖父で、変死を遂げた足利家時(あしかがいえとき)以来の、北条氏以外の母を持つ当主であった。
しからばと前置きして、上杉憲房は一同の前にて話始めた。
「大塔宮は先年出家し、叡山の僧となられ座主を努めておられたおかたでございます。先の乱のおり、帝は比叡山に協力を求め、京を脱して比叡山に登る手筈でおりましたが、実際に比叡山に向かったのは帝の偽者でした。帝の偽物を叡山に登らせたことが露見し、立場上大塔宮は叡山にいられなくなり山をお降りになられました。流浪の末に吉野にたどりつき、そこで幕府転覆の御令旨を各地に送っていると言われております。誠にゆゆしい事でございますが、寺社が後ろだてしており、先帝の時よりはるかに手ごわい相手と申せましょう。」
「では、大塔宮は皇子ではなく、僧なのか。」
一同の中の誰かが驚きとともにつぶやいた。近年、公家の力はもう復活不可能なほどに下落してしまっており、今回の後醍醐天皇の蜂起など、取るに足らない出来事であった。しかし相手が寺社となると話は違う。寺社の勢力は最近富に強くなってきている。もし、護良親王の後ろだてが公家でなく比叡山や高野山であるならば後醍醐謀反の時の様に簡単には落ちまいと、そこの誰もが感じたのだ。
足利高氏は一族を連れて再度上洛した。今度ばかりは千早城にこもる楠木軍と正面から戦った。千早城は、守るに易く、責めるに難い天然の要害であった。両側を切り立った崖ではさまれた狭道をよじのぼるように進行するより攻め口は見あたらなかった。何十万の兵が城を遠巻きにして攻めあぐね、緒戦より膠着状態になった。関東からはるばる援軍に上洛した関東御家人達にとっては手持ちの食料の心配までせねばならない。少しでも手柄を立てて恩賞のみやげをと思っていさんで出陣してきて、ここでただ食いつぶして帰るわけにはいかないのだ。いきおい、抜駆けの功名をねらい突撃する者が現われる。しかし、要塞からは容赦なく大石が落とされて、彼らはひとたまりもなく敗退する。どうにかやぐらの下までたどりついても仕掛のあるやぐら板もろとも谷底に落とされる。といった具合いで、幕府軍の被害は甚大な物があった。
「さしたる人数とは思えぬが、なかなかやるのお。それより幕府の統率の無さはなんたる事か。やたら自滅しておるではないか。」
遠巻にするように陣を張った足利高氏は、千早城の方角を眺めながら呟いた。
楠木軍にしても、孤立無援の状態であった。各地にまいた護良親王の令旨の効果はまだ現われていなかった。不満が蔓延しているとはいえ、幕府に正面から対抗できる力を備えた勢力は存在しなかったのである。各地の勢力が同時ほう起し護良親王の元に集まるという楠木正成の計画は当初より挫折した。
膠着状態を確認し、足利高氏は一端鎌倉へ帰っていった。

著作:藤田敏夫(禁転載)

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