【風雲児新田義貞 5】

戻る
鎌倉幕府滅亡
天然の要害:
鎌倉というところは三方を山に一方を海にかこまれた天然の要害でした。大抵の御家人なら一度は鎌倉詣でをしたはずで、当然小さくとも新田家でも鎌倉屋敷をもっていたと思われ新田義貞も幾度となくこの地を訪れていたにちがいありません。守りやすく攻めにくい地形であったことはよく承知しています。
引潮時の稲村ケ崎海岸が広く大きな口を開けてしまうほかは、両崖の狭い道しかありません。幕府方はこの鎌倉の地形を利用した篭城戦をとりました。新田軍は化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂などの幕府軍最後の防衛戦を突破することができず苦戦しました。幕府軍の最後の望みは、新田の軍勢が苦戦している間に援軍が到着することでしたが、実際にはそれは全く望みのない話でした。
勝利:
新田義貞には、当初よりの鎌倉攻めの計画がありました。ひとり、いまは潮の満ちた稲村ヶ崎の海岸に立つと、先祖伝来の家宝の剣を両手に持ち、海神にいのり、その剣を海中に投げ込みました。すると不思議。浜風の強くふき波の高かった海岸が引潮のごとく潮がひき、海上の幕府軍船は沖へ流され、新田の大軍はいさんで鎌倉に攻めこんでいくことができたのです。多少引潮とはいえ腰までつからなければ渡れない稲村ヶ崎を大軍が渡れるはずはないと油断していた幕府軍は、背後をつかれ、いっきに攻め滅ぼされてしまいました。元弘3年5月22日。それは、無名で無位無冠の新田義貞が新田庄にてたった150騎という無謀な挙兵をしてから、わずか14日後の事でした。
ところでこの海神に祈る新田義貞の姿は戦前の教育を受けた人なら誰でも知っているという非常に有名なシーンで、唱歌「鎌倉」にも歌われています。現在群馬県新田郡尾島町世良田の東毛歴史資料館の庭に頭上に剣をかざした新田義貞の像がありますが、あれを見て稲村ヶ崎をすぐに連想できる人は少なくなったことでしょうね。
混乱の前兆:
鎌倉幕府は滅びました。これで戦乱の世は終ったと誰もが信じたことでしょう。しかし、実際には、本当の戦乱の世は、ここからはじまったのです。鎌倉陥落の前後、やがてそれはその後の南北朝の混乱の火付けとなる二人の少年がひそかに鎌倉を脱出しました。
ひとりは、信州は諏訪の諏訪頼重のもとへ脱出した北条高時の次男、亀寿丸(後の北条時行)5歳。もうひとりは、人質同然だった足利高氏の嫡男、千寿王(後の二代将軍)4歳です。
著作:藤田敏夫(禁転載)
戻る
尊氏足利尊氏