【風雲児新田義貞 3】

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新田家と足利家
家系:
足利高氏と新田義貞は共にその祖先を源義国にもつ八幡太郎義家の子孫です。鎌倉将軍を継いでいた正統源氏が源実朝で途絶えたため、もっとも正統に近い血筋はとたどれば、源義国に到達します。その嫡子義康が足利の地に土着し、側室の子ではあっても長子であった義重が新田の地に土着しました。領地の大きさもほぼ当分。父義国はふたりを分け隔てなく育てたに違い有りません。そこには嫡流うんぬんなどなく、兄弟の仲もよかったのでしょう。新田義貞も足利高氏も共にその両家の第8代当主でした。
領地:
新田の地とは現在の群馬県太田市と新田郡。足利の地とは現在の栃木県足利市です。群馬県と栃木県にわかれていても両地区は隣接する都市で現在でも姉妹都市のように文化的にも経済的にも密接な関係にあります。
現在足利家のあった場所は大日如来をまつる鑁阿寺(ばんなじ)という名の寺院になっており市民からは大日様と呼ばれ親しまれておりますが、もともと武家屋敷でしたので、寺院にはめずらしく周囲を外堀が囲ってあり、建物のあちらこちらに足利家の家紋が見られます。今でも市の中心地で市民の憩いの場所になっています。すぐ隣には日本最古の学校として室町時代に建てられた足利学校があります。
新田のほうもおなじく呑竜様と呼ばれ親しまれている寺院が太田市の中心部にあって、その裏手には、車でのぼれる金山(かなやま)と呼ばれる小高い山城があり、現在頂上には新田義貞を祭る神社ができています。新田義貞の居城とされる反町館跡は、現在、反町薬師としてやはり新田町の人に親しまれております。
どの町も東京の浅草から東武伊勢崎線で1時間30分から50分くらいです。お近くの方はぜひ一度訪ねてみてください。
足利屋敷:
足利家は鎌倉に大きな足利屋敷を与えられ武家の中でもかなりの高い地位を保証されました。もはや足利の土着武士ではなく、幕府の要人として鎌倉がその本拠でした。足利高氏はそんな鎌倉の足利屋敷で生まれ育ったエリートですからそのころすでに足利の地は形だけの本領になっていたはずです。現存する文献には足利の地に高氏がおとずれたことを証明できるものはなに一つありません。むしろ高氏はその生涯でただの一度も足利の地に来たことはなかったと考えるのが自然と思えます。..とは私の考えですが。
足利家と新田家のたどった道:
足利家は正統源氏が途絶えた後、源氏嫡流として鎌倉幕府より手厚い保護をうけたことは以前にもお話しした通りですが、優遇されたのは本当にそれだけの理由でしょうか。もし鎌倉幕府が源氏優遇策なるものをもっていたとしたなら、新田家の冷遇はどう考えたらいいのでしょう。いやそれより、そのような考えが幕府にあるなら形骸化されたとはいえ将軍職は源氏嫡流と認められた足利家より選出されたはずです。源氏嫡流という名誉ある肩書はむしろ足利家が中央に進出してから、こじつけのごとく与えられたもので、肩書ゆえの出世ではなかったと思われます。
鎌倉に大きな屋敷を構える足利家にくらべ新田家は相変わらずの北関東の土着武士団のひとつとしてさほどめだった存在ではありませんでした。
源頼朝の挙兵には関東の武士が雪崩のごとく頼朝軍に加わり地滑り的勝利で天下を取ったとされていますがその関東武士の中に両家も入っていました。足利家二代の足利義兼がいちはやく頼朝に従ったのに対し、新田家初代の新田義重は当初反頼朝の立場をとっておりました。これがそののちの両家の立場を微妙に狂わせていったことがうかがえます。
しかし、それだけで説明のつくことではありません。決定打は賄賂です。足利の地は平安時代より有名な絹織物の産地でした。賄賂には反物が最も有効です。足利家の地位向上にこれを使わないはずはありません。対する新田の地は農耕にもさほど適さない赤土の土地がらで、賄賂性のある産物があまりありませんでした。この差は鎌倉時代が平和になればなるほど大きくなります。平和な時代に有効なのは力より金です。
貨幣文化の始まった鎌倉にはぴったりだったはずです。(うむ。われながらみごとな考察)
著作:藤田敏夫(禁転載)

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