珍説その一:楠木正成は湊川では勝てると信じていた

楠木正成は、決死の覚悟で湊川の戦いに赴いたと言われています。この戦いは勢いのある足利尊氏に有利と分析し、天皇には、足利尊氏と和解するよう進言したり、京都を放棄して比叡山に逃れるよう勧めたと、歴史の本には書かれています。しかし、勝利を疑わない朝廷からは一蹴され、天皇からは湊川で戦うよう勅命を受けます。敗れることを承知でも天皇の命令に従おうとする悲痛な覚悟の楠木正成は、湊川で美しく散ったと語り継がれています。

しかし本当でしょうか。本当に最初から死ぬ覚悟で出陣したのでしょうか。私は、まったく逆のことを感じています。彼は湊川の戦いで、間違いなく勝利できると確信して出かけていったのではないでしょうか。敗戦は全くの誤算だったと考えられないでしょうか。以下にその根拠を列記してみます。

1.楠木正成が湊川合戦を負け戦と計算したらしい痕跡がない。

楠木正成は、息子の楠木正行を、湊川の戦いに行く途中で、故郷に帰しています。これは「桜井の別れ」といって、泣かせる名場面として戦前の国定教科書にも登場していました。その理由は、この戦が楠木正成にとっては最期の決戦となる事を悟っていたから、彼の亡き後、その意志を引き継ぎ、天皇のために戦うようにという意味であると従来はいわれておりました。彼の意志は、確かに息子に伝わり、楠木正行もまた将来、南朝の天皇に殉じる大活躍をしたのが何よりの証拠と言われています。

しかし、それは単なる偶然にすぎないと思うのです。特別な任務で帰郷させたというより、やはりここは素直に理解して、国をふたつに分けて戦う重要な戦いの前に、教育をかねて従軍させていただけのわが子は、足手まといになる可能性が高いので、帰郷させたという親心と考えたほうが、ごく自然です。
その直前に、朝廷に対して尊氏との和睦を上奏しておりますが、どうも結果論から創作したとしか考えようのない楠木正成らしからぬ消極的提案です。「太平記」は、いつもこのような手法を使って「ほれみたことか」といった表現をおこなうという特徴を持った書物です。実際にそれが書かれたのは湊川の戦いの後になってからですから、そのような事はどうにでも書けるわれけです。知将であるとほめたたえていた太平記の作者にしてみれば、楠木正成の失策など認めたくないのは当然で、それなら、「やむなく敗れたのだ」と創作したくなるのは自然です。

もともとその様な消極的な提言は無く、楠木正成がこの戦は負けると計算したかのような言動については、太平記の作者の創作ではないでしょうか。

2.かれは、常に戦闘的性格を持っていた。

地方豪族にとっては、隣国との争いでなく、中央での戦争参加は、戦闘に不参加であったり、敗者側になったりして、領土を失う危険性を回避したいという願いがこめられています。ひたすら領土安堵をもとめる自己防衛的参戦の豪族が多いなか、楠木正成は、領土よりもむしろ中央進出をねらって積極的に戦っています。その戦闘的な性格は、巨大な権力と真っ向からぶつかっても、少しもひるがず、さしもの鎌倉幕府も彼のために疲弊し、滅びるきっかけをつくってしまいました。

湊川の数ヶ月前には、宇治の平等院で足利尊氏の大軍を楠木軍のみで食い止めた実績を持っており、湊川の条件もさほど変わらなかったことから、負け戦の想定など思いもよらぬことだったのではないでしょうか。
足利尊氏が九州に逃れていくとき、楠木軍は今津浜、打出ノ浜と、足利軍を連覇して自信をつけていますので、山岳ゲリラ戦を得意とする楠木軍は、平地戦に自信がなかったとするのも無理な発想です。

3.勤王ではなかった。

戦後の楠木評と一致するところが私としては面白くありませんので、あまりこれについては述べたくないのですが。戦後の研究で天皇からの綸旨以前の楠木正成の行動について、鎌倉の命で出陣した記録や、荘園荒しの悪党だったことなどが取り沙汰され、根っからの勤王とするのは誤りとする説があります。

しかしこれについては、それで楠木正成の評価を変えるのは誤りだと思います。それまでは天皇などという雲上人は無縁の世界で活動していたから、鎌倉幕府が天皇を抑圧しているなどという憤りを感じたことはなかったのだろうと同情的に考えればいいのです。でもわたしが勤王でないとした根拠は別にあります。

正成があるじとしたのは、「天皇」ではなく「後醍醐」という自分を高く評価してくれる利用価値の高い権力者だったのです。後醍醐が隠岐に流された時に挙兵した護良親王は、必ずしも後醍醐救出が目的ではなく、みずから幕府を打倒して帝位に付こうとする目的を持っていたというのが私の考えですが、そうすると正成の同時挙兵は、護良親王が帝位に就いた場合、その側近としての恩賞が目当てだったと想像できます。

それを裏付けるものとして、幕府崩壊後、後醍醐天皇の返り咲きにより、微妙な立場になってしまった護良親王から、すぐに離れて、いつの間にか倒幕の中心に帰り咲いた後醍醐天皇の帰京の先導役になっていたことは、恩賞の沙汰は護良親王ではなく、後醍醐天皇より出されることを考慮したからということがあげられます。
負け戦に恩賞はありませんから、湊川での負けが決定的と予想していたのなら、当然の事ながら出陣などしなかったはずです。

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