北斗の星、千葉氏伝(11)
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《馬加康胤(まくはり・やすたね)》
内紛で惣領制が完全に破綻し、徐々に力を弱めながらも千葉氏は、依然下総守護の地位を確保しておりました。代は千葉貞胤から氏胤、満胤、兼胤と移り千葉胤直の時代になり、またもや千葉一族を二分する内乱が発生しました。
康正元年(1455)のころ、関東は上杉氏と古河公方とが関東の覇権を争っていました。関東中の武家が両方の勢力にわかれ戦いをはじめたのです。千葉氏も例外ではなく、宗家の千葉貞胤が上杉氏、庶流の馬加康胤が古河公方に加担して身内同士の対立をおこしておりました。
馬加康胤は幕張の馬加城(JR幕張駅北方)を拠点として千葉宗家に戦いを挑みました。
「父上、夜襲でございます。卑怯にも馬加康胤が夜襲をかけてまいりました。」
千葉胤直の寝所に嫡男の千葉胤宣が突然飛び込んで来ました。不意をつかれて防戦する間もない千葉胤直は、わずかな側近をつれて亥鼻城から逃れました。
「無念じゃ、とりあえず佐倉の寺崎城へ落ち延びて、上杉殿の援軍を待とう。」
千葉胤直は、先祖伝来の妙見観音像と北斗七星剣を両手につかんだまま、闇の中を佐倉へと走ったのでした。
翌日、佐倉城に辛くも逃れた千葉胤直は、さっそく上杉氏への援軍を請う書状を鎌倉へ送りました。しかし援軍を待つ余裕も与えずに馬加康胤の軍は佐倉城へも迫って来ました。
「この城ではとてもあの馬加軍と戦う力はありません。多胡城へ向かいましょう。あそこなら今の馬加軍とは対等に戦えます。」
家臣の進言で、せっかく落ち延びてきた佐倉城をも放棄する事になりました。
「しまった、妙見観音を。」
千葉胤直が、妙見観音像と北斗七星剣を佐倉城に置き忘れてしまったのを思いだしたのは、すでに佐倉城が敵の手に落ちた頃の時間でした。妙見観音像と北斗七星剣は、これを持つ者が宗家を継ぐと言われた千葉家家宝でした。妙見観音の加護で、決して家が滅びる事はないと言われるこの家宝を手放してしまった事に千葉胤直は言い知れぬ不安を感じました。
多胡城に逃れた千葉胤直、胤宣父子の元に、同族の円城寺尚任も根古屋城(印旛郡八街町)を防ぎきれず逃れて来ました。
こうして多胡城を本拠とした千葉胤直、胤宣、円城寺尚任は、ひたすら上杉氏の援軍を待つのでした。
およそ4ヶ月が過ぎたころ、馬加康胤の多胡城への総攻撃が開始されました。馬加康胤には古河公方の援軍が合流し、多胡城を防衛する千葉軍の倍もある大軍で襲いかかってきたのです。上杉氏の援軍を得られないままついに多胡城は陥落し、千葉胤宣と円城寺尚任は城とともに果てました。千葉胤直は逃れた先の土橋の如来堂にて無念の自害して果てたのでした。
現在多古町寺作の土橋山東禅寺の境内には千葉胤直終焉の地として「千葉介胤直の墓」と称される五輪塔があります。
現在、千葉家代々の墓がある寺として有名なのは千葉市轟町にある大日寺です。ここに行くと、これまでお話した千葉一族の墓が見られますので、興味のある方は一度尋ねて見られてはいかがでしょう。
千葉氏は、この後、妙見観音像を手にいれた馬加氏が千葉介を名乗り室町時代を絶えることなく続きました。

(参考:千葉氏系図:千葉大系図)

千葉貞胤__氏胤__満胤___千葉兼胤__胤直__胤宣
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            |__馬加康胤__(千葉氏)
著作:藤田敏夫(禁転載)
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